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お知らせ

「お口ぽかん」は、ただの癖ではありません。

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最近、「子どものお口がいつも開いている」という相談が全国で増えているそうです。

これは単なる癖ではなく、「口腔機能発達不全症」と呼ばれる状態の可能性があり、今、歯科の現場でも大きな課題となっています。虫歯が減少している一方で、「食べる」「飲み込む」「話す」「鼻で呼吸する」といった、お口本来の機能が十分に育っていない子どもが増えていることが報告されています。(TBS NEWS DIG⁠)

では、なぜなのでしょうか。

原因は一つではありません。

食生活の変化、柔らかい食べ物の増加、スマートフォンやゲームの時間の増加など、さまざまな要因が考えられています。

その中でも私が特に気になったのは、「昔ながらの遊びが減ったこと」も一因ではないかという指摘です。(TBS NEWS DIG⁠)

昔の子どもたちは、外で走り回り、鬼ごっこをし、縄跳びをし、竹馬に乗り、シャボン玉を吹き、風車を回し、笛を鳴らして遊びました。

こうした遊びは、楽しみながら自然と口や舌、頬、あご、そして全身を使う遊びでもありました。

子どもの身体は、「鍛えよう」と意識して育つものではありません。

夢中になって遊ぶ中で、必要な力が自然と育っていくのです。

柏の葉学園でも、「遊びは学び」であることを大切にしています。

泥だんごを作る。
シャボン玉を吹く。
歌を歌う。
大きな声で笑う。
思い切り走る。
友達とたくさんおしゃべりをする。

一つひとつは遊びに見えますが、その時間こそが、子どもの身体や心、そして「生きる力」を育てています。

便利な時代になりました。

だからこそ、便利さだけでは育たない力があることも忘れてはいけません。

「遊ぶこと」は、子どもにとって最高のトレーニングです。

今日も子どもたちが夢中になって遊ぶ姿を、私たちは大切に見守っていきたいと思います。

子どもの未来は、遊びの中から育っていくのです。

色が教えてくれる、手が育ててくれる。

赤、黄、緑。

目に飛び込んでくる鮮やかな色に、子どもたちの目はキラキラと輝きます。

「わぁ、ふわふわ!」
「気持ちいい!」
「もっと混ぜたい!」

今回の感覚遊びでは、ベーキングパウダーと食紅を使って、不思議な感触を楽しみました。

最初はサラサラだった粉が、少しずつ変化していく様子を見て、手で触れ、握り、つぶし、こねる。

「冷たい。」
「やわらかい。」
「ふわふわ。」
「ねっとりしてきた!」

子どもたちは言葉だけではなく、自分の手全体でたくさんの発見をしていました。

感覚遊びは、ただ遊んでいるように見えて、実はとても大切な学びです。

指先や手のひらから伝わる刺激は、脳へと届けられ、感覚を整理する力や集中力、手先の器用さ、想像力など、さまざまな力を育んでくれます。

また、「赤と黄色を混ぜたらどうなるかな?」
「もっと水を入れたらどうなるかな?」

そんな小さな実験の積み重ねが、「やってみたい」という探究心を育てます。

正解を教わるのではなく、自分で確かめる。

柏の葉学園では、この「自分で感じる経験」を大切にしています。

手が汚れることも、服に色がつくことも、この時間では大切な勲章。

夢中になって遊んだ証です。

今日も子どもたちの小さな手は、たくさんの刺激と発見を受け取り、また一つ大きく成長しました。

遊びは、子どもにとって最高の学び。

私たちはこれからも、五感をいっぱい使いながら、「楽しい!」の中にたくさんの学びがある支援を続けていきます。

明日から、待ちに待った夏休み。

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子どもたちにとって、一年で一番わくわくする季節が始まります。

柏の葉学園では、この夏を「最高の夏休み」にするため、先生たちが毎日イベントの企画や準備を進めています。

「今日は何をするの?」
「明日はどこへ行くの?」

そんな子どもたちの期待に応えられるよう、毎日が思い出になる活動をたくさん用意しています。

もちろん、楽しいだけではありません。

今年の夏も厳しい暑さが予想されるため、子どもたちの安全を最優先に、熱中症対策を徹底して行います。

  • 室内の温度・湿度をこまめに確認・管理
  • 気温や暑さ指数に応じた活動場所・行き先の判断
  • 30分ごとの水分補給の声かけ
  • 外出先の気温や日陰、休憩場所などの事前確認
  • 塩分タブレットの準備
  • 水筒の中身や飲む量の確認・補充
  • 一人ひとりの表情や顔色、体調の変化など健康観察の徹底

先生たちは、子どもたちが思いきり楽しめるように、その裏側でたくさんの準備を重ねています。

ご家族の皆さま、どうぞ安心してお子さちをお預けください。

「楽しかった!」

その一言がたくさん聞けるように。

そして、夏休みが終わる頃には、一回りも二回りも成長した子どもたちの笑顔が見られるように。

柏の葉学園は、暑さ対策を万全にしながら、今年も最高に楽しい夏を子どもたちと一緒につくっていきます。

「教育」の原点は、法律の中に書かれています!

柏の葉学園では、日々さまざまな活動を行っています。

公園で思い切り遊ぶこと。野菜を育てること。卵の殻を砕いて肥料を作ること。友達と笑い合い、ときにはぶつかり合うこと。

こうした活動を見て、「遊んでいるだけでは?」そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。

そうです!子どもたちにとって遊びはとても大切です!!
そして、私たちにはそう考える一つの根拠があります。

それが学校教育法第23条です。


学校教育法 第23条(幼稚園の目標)

幼稚園における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 健康、安全で幸福な生活のために必要な基本的な習慣を養い、身体諸機能の調和的発達を図ること。

二 集団生活を通じて、喜んでこれに参加する態度を養うとともに、家族や身近な人への信頼感を深め、自主、自律及び協同の精神並びに規範意識の芽生えを養うこと。

三 身近な社会生活、生命及び自然に対する興味を養い、それらに対する正しい理解と態度及び思考力の芽生えを養うこと。

四 日常の会話や、絵本、童話等に親しむことを通じて、言葉の使い方を正しく導くとともに、相手の話を理解しようとする態度を養うこと。

五 音楽、身体による表現、造形等に親しむことを通じて、豊かな感性と表現する力の芽生えを養うこと。


私は、この条文を読むたびに思います。

ここには、「字を書けるようになりましょう。」「計算ができるようになりましょう。」とは、一言も書かれていません。

法律が最初に大切だと示しているのは、

健康な身体。
安心できる人との関係。
仲間と生活する力。
自然への感動。
言葉を通して心を伝え合うこと。
そして、自分を表現する喜び。等々

これらは「遊び」の中で経験し学ぶことができます。

だから柏の葉学園では、
野菜を育てます。
卵の殻を肥料にします。
泥だらけになって遊びます。
虫を見つけて歓声を上げます。
友達とけんかをし、仲直りをします。

これこそが法律が目標として掲げる教育そのものだからです。

支援とは、できないことをできるようにすることではない!
のではないでしょうか?

その子が本来持っている

を信じ、

その力が十分に発揮できる環境を整えることだと

考えています。


私たちは、子どもに何かを与えているのではありません。

子どもが自ら育つためのを耕しているのです。

花は、無理に咲かせることはできません。

種には種の時期があり、芽には芽の時期があります。

大切なのは、花を引っ張ることではなく、根が伸びる環境を整えること。


学校教育法第23条は、幼稚園の目標を定めた条文です。

しかし私は、この条文は幼児教育だけでなく、

でもあるように感じています。

結果を急ぐのではなく、土台を育てる。

教え込むのではなく、育つ力を信じる。

柏の葉学園は、これからも法律が示す教育の原点を大切にしながら、

子どもたち一人ひとりの

「育つ力」を信じ、

その歩みに寄り添ってまいりたいと思います。

「たまごの殻」がつないでくれたもの

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「たまごの殻」がつないでくれたもの

この写真で子どもたちは何をしているのでしょう?

答えは…

卵の殻を砕いています。

「なんで?」

そう思いますよね。

実は、この卵の殻は柏の葉学園で育てている野菜たちの肥料になります。

ご家庭で出た卵の殻を持ってきていただき、

子どもたちが、洗って!乾かし!・・・その殻を細かく砕くお手伝いをしています。

やがてその殻は土に還り、野菜の栄養となります。

そして、その野菜を子どもたちが収穫し、食べる。

一つの命が、また次の命を育てていく。

そんな循環を、子どもたちは手で感じています。


この活動で私たちが一番大切にしていることは、肥料を作ることではなくて・・・。

子どもの成長が大きく伸びるのは、
家庭と学園の方向が重なったとき!!!ということを。

学園だけが頑張っても限界があります。

家庭だけが頑張っても難しいことがあります。

だからこそ、

「学園では今、こんなことをしているんですね。」

「家でも協力してみます。」

そんな一言が、子どもの育ちを大きく変えていきます。

もちろん、お仕事や家事、子育てで毎日忙しいことは十分承知しています。

だから、特別なことをお願いしたいわけではありません。

ただ、ほんの少しだけ学園の取り組みに興味を持っていただけたら。

そして、一緒に考え、一緒に子どもの成長を喜んでいただけたら。

そのきっかけが、今回の卵の殻でした。

家庭では「ゴミ」として捨てられるかもしれないものが、学園では「命を育てる資源」になります。

その一つひとつに、ご家庭の協力が詰まっています。

子どもたちは今日も、一生懸命に殻を砕いていました。

きっと、野菜のためだと思って。

でも本当は、それだけではありません。

家庭と学園をつなぐ、小さな架け橋を、子どもたちは一緒につくってくれていたのです。


私は・・・『支援』とは、子どもだけを支援する営みではないと思っています。

その第一歩は、卵の殻一つからでも始められるのだと、
今回子どもたちが教えてくれました。

そこに愛が、確かにある。

砂を掘り、小さな世界をつくり、自分だけの発見を楽しんでいます。

教えているわけでもなく・・・、
指示を出しているわけでもなく・・・。

ただ、子どものすぐそばにしゃがみ、同じ景色を見つめています。

必要になったら、すぐに手を差し伸べられる距離で。
でも、子どもの「やってみたい」を奪わない距離で。

子どもが今、何を感じ、何を考え、何を生み出そうとしているのか。

私には、
その営みに先生自身の心を重ねているように見えるから。

大人って、
つい手伝いたくなる。
つい答えを教えたくなる。
つい先回りしたくなる。

でもでも、本当に大切なのはその工程を一緒に楽しむことなのではないでしょか?

この写真には、大きな笑顔も、派手な遊びも写っていません。

けれど、目には見えない大切なものが写っています。

子どもを信じるまなざし。

子どもの時間を大切にする心。

「あなたならできる」と、言葉にしなくても伝わる存在。

愛情とは、抱きしめることだけでは、ない・・・。

静かに寄り添い、
焦らせず、
子どもの挑戦を見守ること。

その時間の積み重ねこそが、子どもの心に「安心」という土台を育てていきます。

柏の葉学園では、子どもたち一人ひとりの「今」を大切にしています。

急がせるのではなく、待つ。
やらせるのではなく、一緒に育つ。

そんな一枚の写真です。

「観察」について色々考えてみました

子どもたちの成長に係る仕事をしている私たちは

「観察」

とても大切なことだと考えています。

子どもたちの些細な行動や発言、顔色、服装・・・そこから子どもたちの状況を読み取ることができます。

「観察」とはどういうことなのか改めて考え、探求してみました。

1. 「観」の成り立ちと意味

「観」は旧字体で と書きます。

字源的には、左側の と、右側の から成る字です。「見」は目で見ることに関わる字で、「観」は「よく見る」「注意して見る」「物事の様子を見る」といった意味を持ちます。漢字辞典では、「観」は「みる/よく見る/注意して見る/様子/姿/外見」などの意味を持つ字と説明されています。(漢字辞典オンライン)

ここで大切なのは、「観」はただ視界に入れるだけの「見る」ではなく、距離を取り、全体を眺め、意味を読み取ろうとする見るに近いことです。

たとえば、

「見る」は、目に入る。
「観る」は、心を向けて見る。
「観」は、対象の姿だけでなく、あり方・流れ・本質まで見ようとする。

そのため「観」には、外側から眺めるだけでなく、物事の全体像をとらえる視線が含まれています。

2. 「察」の成り立ちと意味

「察」は、 から成る字とされます。漢検系の辞典では、「宀」と音符の「祭」から成り、「おおわれているものを取って明らかにする意」を表すと説明されています。(漢字辞典)

「察」には、「明らかにする」「知る」「詳しく見る」「よく考える」「推測する」「思いやる」といった意味があります。(OK辞典)

つまり「察」は、目に見えるものだけで終わらず、見えにくいものを感じ取り、推し量り、理解しようとする働きです。

たとえば、

表情を見て、気持ちを察する。
状況を見て、事情を察する。
小さな変化から、原因を察する。

「察」は、見えないものを勝手に決めつけることではありません。見えている手がかりから、慎重に奥を探ることです。

3. 「観察」とは何か

「観」と「察」を合わせると、観察とは、

対象をよく見て、そこに現れている状態や変化をとらえ、さらに見えにくい原因・意味・関係を明らかにしようとする営み

だと言えます。

国語辞典でも「観察」は、「物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること」と説明されています。また仏教語としては、「智慧によって対象を正しく見極めること」という意味もあります。(コトバンク)

ここから考えると、観察には二つの方向があります。

一つは、外に向かう観察です。自然、社会、人間、物事の動きをよく見ることです。

もう一つは、内に向かう観察です。自分の感情、思考、先入観、反応をよく見ることです。

4. 科学としての観察

科学における観察は、主観をできるだけ抑え、対象の状態や変化を丁寧に記録することです。

たとえば植物を観察するとき、「元気そう」とだけ書くのでは不十分です。

葉の色はどうか。
茎の長さは何センチか。
昨日と比べて何が変わったか。
日光、水、温度との関係はどうか。

科学的な観察では、印象ではなく、事実・変化・条件・比較が大切になります。

ただし、科学的観察も完全に中立ではありません。何を見るか、どこに注目するかは、観察者の問いによって変わります。つまり観察とは、ただ受け身で見ることではなく、問いを持って見ることでもあります。

5. 人間関係としての観察

相手の言葉だけでなく、沈黙、表情、声の調子、間の取り方、態度の変化を見る。そこから「何を感じているのか」「何に困っているのか」を察する。

ここでは「観」だけでは足りません。外側の様子を見るだけなら、相手を表面的に判断してしまうことがあります。そこに「察」が加わることで、相手の立場や背景を思いやる理解になります。

ただし、察しすぎにも注意が必要です。

「きっとこう思っているに違いない」と決めつけると、それは観察ではなく思い込みになります。人間関係における観察は、相手をよく見ることと、断定しすぎないことの両方が必要です。

6. 自己理解としての観察

観察は外の世界だけでなく、自分自身にも向けられます。

なぜ今、腹が立ったのか。
なぜこの言葉に傷ついたのか。
なぜ同じ失敗を繰り返すのか。
なぜこの人の前では緊張するのか。

自分を観察するとは、自分を責めることではありません。自分の心の動きを、少し距離を置いて見ることです。

この意味で観察は、自己成長の出発点になります。なぜなら、人は自分が気づいていない癖を変えることは難しいからです。まず気づく。次に理解する。そして少しずつ選び直す。観察はその最初にあります。

7. 哲学的に見る「観察」

哲学的に考えると、観察は「世界をそのまま見ること」であると同時に、「自分の見方を通して世界を見ること」でもあります。

同じ景色を見ても、人によって感じることは違います。

農家は土や天気を見る。
画家は光や色を見る。
医師は顔色や姿勢を見る。
子どもは遊び場を見る。
旅人は珍しさを見る。

つまり、観察には必ず「視点」があります。

だからこそ、本当に深い観察には、二つの姿勢が必要です。

一つは、対象を丁寧に見ること。
もう一つは、自分の見方が偏っていないかを疑うこと。

観察とは、世界を見る行為であると同時に、自分のまなざしを問い直す行為でもあります。

8. 「観察」と「観測」「監視」「考察」の違い

「観察」は、対象を注意深く見て、状態や変化を理解しようとすることです。

「観測」は、より数値的・測定的です。天気、地震、天体などを測るときによく使います。

「監視」は、異常や違反がないかを見張る意味が強くなります。対象との関係に緊張があります。

「考察」は、観察したことをもとに考え、意味や原因を深めることです。

つまり、

観察は、よく見る。
観測は、測って見る。
監視は、見張る。
考察は、見たことを考える。

この中で「観察」は、見ることと考えることの中間にあります。見て終わりではなく、考察へ向かう入口です。


「観察」とは、目で見るだけの行為ではありません。

は、全体をよく見ること。
は、見えにくいものを明らかにしようとすること。

したがって観察とは、

目に見える事実を丁寧にとらえ、そこから見えない関係・変化・意味を慎重に理解しようとすること

です。

さらに言えば、観察とは「対象を知る技術」であり、「思い込みを減らす訓練」であり、「世界と自分へのまなざしを深める態度」でもあります。

よく観る人は、すぐに決めつけません。
よく察する人は、見えないものを乱暴に断定しません。
本当の観察とは、注意深さと謙虚さをもって、物事に近づくことだと思います。

文月

文字に思いをのせる七月

七月になりました。

一年の半分が過ぎ、いよいよ夏の気配が濃くなってきます。
空は高く、日差しは強く、草木はぐんぐん伸びていきます。
子どもたちの声も、夏の空に負けないくらい元気に響く季節です。

七月の和風月名は「文月」といいます。
「ふみづき」と読みます。

この「文月」という名前には、いくつかの由来があります。

よく知られているのは、七夕に関係する由来です。
七夕には、短冊に願いごとを書きます。
昔の人々も、詩や歌を書いたり、書の上達を願ったりしました。
その「文を書く月」から、「文月」と呼ばれるようになったという説があります。

「文」とは、ただの文字ではありません。
思いをのせるものです。
願いを形にするものです。
心の中にあるものを、相手に伝えるための大切な道具です。

また、稲穂がふくらみ始める月という意味から、
「穂含月(ほふみづき)」が変化して「文月」になったという説もあります。

どちらの由来にも共通しているのは、
目には見えにくいものが、少しずつ形になっていくということです。

短冊に書いた願い。
田んぼで育つ稲の穂。
子どもたちの心の成長。
日々の小さな積み重ね。

どれも、すぐに大きな結果が見えるものではありません。
けれど、確かに育っています。

子どもたちの成長も同じです。

昨日できなかったことが、今日少しできるようになる。
言えなかった気持ちを、ぽつりと言葉にできる。
けんかになりそうな場面で、少しだけ我慢する。
「ありがとう」「ごめんね」が言える。

それは大人から見ると小さな一歩かもしれません。
しかし、その一歩には大きな意味があります。

文月は、文字に思いをのせる月。
そして、育ちを静かに見守る月。

七夕の短冊に願いを書くように、
子どもたち一人ひとりの中にも、たくさんの願いや可能性があります。

「もっとできるようになりたい」
「ほめられたい」
「友だちと仲良くしたい」
「自分の気持ちをわかってほしい」

言葉にできる子もいれば、まだうまく言葉にできない子もいます。
だからこそ、大人はその小さなサインを見逃さず、
焦らず、急がず、丁寧に関わっていきたいものです。

文月。
文字が心を運ぶ月。
願いが空へ向かう月。
稲穂が静かに実りへ向かう月。

七月も、子どもたちの小さな成長を大切に見つめながら、
一日一日を丁寧に過ごしていきたいと思います。

サッカーワールドカップから子どもたちに伝えたいこと

今、世界中が注目しているサッカーワールドカップ。

世界の国々の選手たちが、ひとつのボールを追いかけて、全力で走り、考え、仲間と声をかけ合いながら戦う姿には、たくさんの学びがあります。

サッカーは、ひとりだけ上手でも勝てるスポーツではありません。

シュートを決める人がいる。
パスを出す人がいる。
相手の攻撃を止める人がいる。
仲間のために走る人がいる。
ベンチから声を出して応援する人がいる。

一人ひとりに役割があり、その役割がつながることで、ひとつのチームになります。

これは、子どもたちの生活にもよく似ています。

園での生活も、学校での生活も、家庭での生活も、ひとりだけで成り立っているわけではありません。

誰かが困っていたら声をかける。
友だちが頑張っていたら応援する。
自分にできることを一生懸命やる。
失敗した友だちを笑わずに、「大丈夫」「次があるよ」と伝える。

そうした一つひとつの行動が、集団生活の中でとても大切になります。

ワールドカップでは、勝つチームもあれば、負けるチームもあります。

でも、子どもたちに伝えたいのは、勝ち負けだけではありません。

負けそうになっても最後まで走ること。
失敗しても下を向き続けないこと。
仲間を信じること。
自分にできることを最後までやり切ること。

そこにこそ、大きな学びがあるのだと思います。

試合を見ていると、選手たちは何度も転びます。
ボールを取られることもあります。
思い通りにいかない場面もたくさんあります。

それでも、すぐに立ち上がり、またボールを追いかけます。

その姿は、子どもたちにとっても大切なメッセージになります。

最初から何でも上手にできる人はいません。
勉強も、運動も、遊びも、生活習慣も、何度も失敗しながら少しずつ身についていきます。

大切なのは、失敗しないことではありません。

失敗したあとに、もう一度やってみようと思えること。
うまくいかなかった理由を考えること。
仲間と力を合わせること。
そして、最後まであきらめないことです。

子どもたちにも、毎日の生活の中にそれぞれの「ワールドカップ」があります。

朝の準備を頑張るワールドカップ。
友だちにやさしくするワールドカップ。
給食を楽しく食べるワールドカップ。
苦手なことに挑戦するワールドカップ。
宿題に向かってみるワールドカップ。

大きなトロフィーはなくても、昨日より少し頑張れたら、それは立派な成長です。

昨日より少しやさしくできた。
昨日より少し我慢できた。
昨日より少し挑戦できた。
昨日より少しあきらめなかった。

それは、子どもたち一人ひとりの中にある大切な勝利です。

ワールドカップを通して、子どもたちにはスポーツの楽しさだけでなく、仲間と協力すること、最後までやり抜くこと、失敗しても立ち上がることの大切さを感じてほしいと思います。

今日の合言葉は、

「転んでも、もう一回!」
「ひとりじゃない、みんなでチーム!」
「今日の自分に、ナイスプレー!」

子どもたち一人ひとりが、今日も自分らしいナイスプレーを見せてくれることを楽しみにしています。

魔法の鉛筆と、頭の良くなるメガネ

先日、みんなで「おいしい給食」というドラマを見ました。

子どもたちの反応が、これまたすごい。
とても楽しそうにドラマを見ながら、「食べることの楽しさ」をみんなで共有していました。

映像の力って本当にすごい。
俳優さんもすごい。
そして、ここまで給食というものを探求し、作品として形にした制作に関わる方々も本当にすごい。

最近、宿題について保護者の方から相談を受けることが増えてきました。

「宿題をやらない」
「声をかけると親子げんかになってしまう」
「どう関わればいいのか分からない」

そんな悩みを抱えているご家庭は、決して少なくありません。

ある日、仕事が終わった後に先生たちで「おいしい給食」を見た時の子どもたちの姿のかわいらしかったこと、
お母さんたちからの相談について・・・
宿題がちょっと楽しくなることないかなぁ・・・なんて!
雑談をしていたところ、マナちゃん先生がこんなことを言いました。

「私、小さい頃、メガネをかけると頭が良くなると思っていて、“頭の良くなるメガネ”をかけて勉強していました!」

なんて素敵な話なのでしょう。

子どもが「その気になる方法」は、たくさんあっていいと思います。
大人から見れば少し不思議なことでも、子どもにとっては大きなきっかけになることがあります。

「これを使うと頑張れる」
「これを身につけると集中できる」
「なんだかできそうな気がする」

その気持ちが、最初の一歩になるのだと思います。

そんなこんなで、日曜日にパパ先生とミカ先生で【亀戸天神社】へ行ってきました。

亀戸天神社には、学問の神様として知られる菅原道真公が祀られています。
そこで鉛筆を購入し、参拝をして、子どもたちの学びが少しでも前向きなものになるようにお願いしてきました。

さらに、メガネも用意してご祈祷。

そして本日、子どもたちに

を進呈しました。

もちろん、このメガネをかけたから、鉛筆を使ったから、それだけで急に頭が良くなるわけではありません。

大切なのは、そのメガネをかけて、その鉛筆を使って、実際に勉強してみること

勉強するから知識が身につく。
知らなかったことが分かるようになる。
少し集中できるようになる。
そして、「できた」という経験が増えていく。

子どもたちには、そんな話をしました。

宿題は、ただ「やりなさい」と言われるだけでは、なかなか前向きにはなれません。
でも、ちょっとしたきっかけや物語があるだけで、子どもの気持ちは大きく変わることがあります。

魔法の鉛筆。
頭の良くなるメガネ。

本当の魔法は、その道具の中にあるのではなく、

さて、その後の子どもたちの様子は……。

後日、またレポートします。

水無月が終わります。

今日で、2026年6月も終わりです。

昔の人は6月のことを「水無月(みなづき)」と呼びました。

「水無月」と聞くと、「水が無い月」と思ってしまいます。

でも、実はそうではありません。

この「無」は、「無い」という意味ではなく、「の」という意味で使われています。

つまり、水無月=「水の月」

ということです。

田んぼに水を引き、田植えを終え、田一面に水が張られる季節。

だからこそ、「水の月」と呼ばれるようになりました。

日本の言葉は、本当に奥深いものです。


子どもたちも同じです。
言葉だけを見てしまうと、誤解することがありように、
行動だけを見ても、本当の気持ちは見えません。

だから私たち大人は、「なぜだろう?」と、一歩立ち止まって考えることが大切です。

言葉の意味を知ると世界が広がるように、子どもの背景を知ると、その子への見え方も変わります。


一年の折り返しとなる今日。

半年を振り返るのも良いのかもしれませんねぇ。

できなかったことではなく、できるようになったことを数えてみる。

少し背が伸びたこと。
少し我慢ができたこと。
少し優しくなれたこと。

成長とは、大きな変化だけではありません。

小さな積み重ねが、やがて大きな実りになります。

どうぞ残り半年も、焦らず、一歩ずつ。

今日という一日が、明日の自分を育ててくれるのですから・・・。

🍆ぼくは、学園のなすです。

こんにちは。
柏の葉学園のプランターで育っている、なすです。

毎日、子どもたちが
「大きくなったね!」
「もう食べられるかな?」
と、ぼくを見に来てくれます。

一番うれしいのは
♪「おおきくなーれ!おおきくなーれ!パワー(*^^)v」の掛け声のもと
手をかざしてパワーをくれること♥

正直に言うとね。
ぼくは、一日では大きくなれません。

太陽の光を浴びて、
雨や水をもらって、
風に揺られて、
少しずつ、少しずつ育っています。

いつもパワーをくれる子どもたちも同じなんだと思います。

昨日できなかったことが、
今日できるとは限らない。

でも、昨日より少し考えられた。
昨日より少し待てた。
昨日より少し笑顔が増えた。

それだけでも、ちゃんと育っているんです。

ぼくを見て、
「まだ小さいね。」
と言う人はいません。

「もう少しだね。」
と、みんな待ってくれます。

子どもたちにも、
そんな優しい眼差しが向けられたら嬉しいな。

急いで大きくなる野菜はありません。

急いで育つ子どももいません。

だから今日も、
ぼくは空を見上げて、ゆっくり大きくなります。

そして食卓に並ぶその日まで、
子どもたちに「育つって、待つことなんだよ」と、
静かに伝え続けようと思います。

🍆 今日のひとこと

「成長は、急がせるものではなく、信じて待つもの。」

— 柏の葉学園のなすより 🌱

勉強とは何か?を考えてみました。

「勉強」という言葉は、「勉めを強いる」と書きます。

「勉める」とは、無理をしてでも力を尽くすこと、困難に負けず努力することです。
「勉」には、精を出して励むこと、また当然やらなければならない物事、義務という意味があります。

一方で、「強いる」とは、他人の意思を無視して無理に押し付けること、無理に行わせること、強制することを意味します。

この言葉だけを見ると、「勉強」とは少し厳しいものに感じられるかもしれません。
しかし、人が集団で生きていくうえで、「勉めを強いる」という行為は、とても大切なものだったのではないでしょうか。

例えば、狩猟の時代を考えてみます。
何も知らない若者が狩猟についていったとしても、知識や技術がなければ獲物を捕ることはできません。獲物が捕れなければ、自分だけでなく、家族や集団全体が困ることになります。場合によっては、生命に関わる問題にもなります。

だからこそ、昨日失敗したことを反省し、先輩から教わり、技術を覚え、次は少しでもできるようになろうとする。
この行為こそが、「勉めを強いる」ということではないかと思います。

つまり勉強とは、現在で言う単に机に向かって教科書を読むこと、書くこと・・・の前に
昨日より今日の自分が少しでも成長できるように、自分に負荷をかけて学ぶこと事態の行為です。

成長するということは、自分にある程度のストレスを与えることでもあります。
変化にはストレスが伴います。今までできなかったことに挑戦するからこそ、苦しさや面倒くささを感じるのです。しかし、そのストレスを乗り越えた先に成長があります。

このように考えると、「勉めを強いる」という行為があり、その行為が現在の「勉強」につながっていると解釈できます。

そう考えると、勉強は「したい」「したくない」、「好き」「嫌い」、「楽しい」「楽しくない」と判断するものではありません。
まず、人が生きていくために、勉めを強いる行為が必要なのです。

もし自分に必要な努力をすることができなければ、周りに迷惑をかけてしまうことがあります。集団の中で役割を果たせず、場合によっては邪魔者扱いされてしまうかもしれません。そうならないためにも、人は生まれてから成長していく過程で、勉めを強いることを学んでいく必要があります。

では、「勉強が楽しい」とはどういうことでしょうか。

それは、どうせ勉めを強いる必要があるのなら、そのやり方を工夫して楽しめるようにすることだと思います。
例えば、ゲーム性を持たせる。友達と協力する。目標を小さく分ける。できたことを認め合う。そうした工夫によって、勉強はただ苦しいものではなく、前向きに取り組めるものになります。

さらに考えると、日本の法律には、子どもには教育を受ける権利があり、保護者には教育を受けさせる義務があります。また、義務教育という制度もあります。
つまり、少なくとも義務教育の期間においては、子どもが学び、成長するために「勉めを強いる」ことは社会全体の前提になっているとも言えます。

現在の子どもたち、「勉強をやりたい」「やりたくない」と言うことがあります。
勉強は本人の気分で決めるものではありません。
人が社会の中で生きていくために、必要な力を身につける行為です。

だから私たち大人が考えるべきことは、子どもにただ「勉強しなさい」と言うことではありません。
そもそも「勉強」とは何なのか?なぜ学ぶ必要があるのか?を伝え、努力することの意味を教え、そして勉めを強いる過程を少しでも前向きにできるよう支えることではないでしょうか。

勉強とは、自分を成長させるために必要な負荷を受け入れること。
そして、昨日より今日の自分を少しでも良くしていくための営みなのだと思います。

「塩梅(あんばい)」という知恵

子どもたちによく話す言葉があります。

「塩梅を考えなさい。」

今では「あんばい」という言葉を耳にする機会も少なくなりましたが、とても日本らしい、美しい言葉です。

料理では、塩が多すぎても少なすぎても美味しくありません。

だから「塩梅」。

ちょうどよい加減を意味する言葉です。

この「ちょうどよい」は、人との関わりにも当てはまります。

冗談は楽しいものです。

みんなで笑い合える時間は、とても大切です。

でも、笑っているのが自分だけで、相手が笑えなくなったら、それはもう冗談ではありません。

あだ名も同じです。

親しみを込めて呼び合うことは、仲の良い証でもあります。

しかし、相手が嫌だと感じた瞬間から、それは親しみではなく苦しみになります。

ちょっかいを出し合うことも、子ども同士の楽しい遊びです。

ところが、やり過ぎれば喧嘩になります。

だから私は子どもたちに伝えます。

「塩梅を考えよう。」

行き過ぎないこと。

やり過ぎないこと。

そして何より、相手の表情や様子をよく見ること。

「今、相手は楽しそうかな。」

「嫌な顔をしていないかな。」

そんなことを考えられる人は、人に優しくなれます。

さらに大切なのは、自分自身を少し離れたところから見ることです。

自分では「これくらい大丈夫」と思っていても、周りから見ると行き過ぎていることがあります。

自分を俯瞰して見られる人は、自然と塩梅の良い人になっていきます。

この「塩梅」は、人間関係だけではありません。

子育てもそうです。

厳しすぎても苦しくなり、甘やかしすぎても育ちません。

植物も、水を与えすぎれば根が腐り、少なすぎれば枯れてしまいます。

どちらも「ちょうどよい加減」があります。

その「ちょうどよい」は、毎日同じではありません。

相手を見て、その日の様子を見て、臨機応変に変えていく。

これこそが昔から日本人が大切にしてきた「中庸」の考え方なのだと思います。

人生には、正解が一つしかない場面よりも、「塩梅」が問われる場面の方が、ずっと多いのです。

だからこそ、知識だけでなく、「加減のわかる人」を育てたい。

それが、人と気持ちよく生きていくための、本当の学びなのではないでしょうか。

戯れ!いたずら!遊び!・・・について考えてみる

子どもが「いたずら」をすると、大人は「こら!」と叱ります。

でも、ふと思いました。

「いたずら」って、どうして「悪戯」と書くのでしょう。

「戯」という字には、本来「遊ぶ」「心を遊ばせる」という意味があります。

子どもが笑いながら遊ぶ姿も、子猫がじゃれ合う姿も「戯れる」。

そこには悪意はありません。

ところが、「悪」という字が付くと「悪戯」。

遊びが、人を困らせる方向へ向かった瞬間です。

一方、日本にはこんな言葉もあります。

「趣がある」
「洒落ている」
「風流だ」

これらも、実は「遊び心」から生まれた言葉です。

趣とは、時間が育てた味わいを楽しむ心。

洒落とは、言葉や装いに知性を添える遊び心。

風流とは、季節や自然を慈しみ、心を豊かにする生き方。

同じ「遊び」でも、その行き先は大きく違います。

人を困らせる遊びは「悪戯」。

人を笑顔にする遊びは「洒落」。

自然や季節を楽しむ遊びは「風流」。

日本語は、その違いをきちんと言葉で教えてくれています。

子どもたちには、遊ぶことをやめてほしいのではありません。

どうせ遊ぶなら、人が笑顔になる遊びを覚えてほしい。

心が豊かになる遊びを知ってほしい。

そんな遊びができる人は、大人になっても周りの人を幸せにできるからです。


「戯」という漢字

「戯(たわむ・れる/ぎ)」は、

本気ではなく、心に余裕をもって遊ぶこと

が本来の意味です。

決して「悪いこと」を意味する漢字ではありません。

そこから様々な言葉が生まれました。


悪戯(いたずら)

「悪」と付いたことで、

相手に迷惑や困りごとを与える遊び

という意味になります。

  • 子どもの悪戯
  • 悪戯電話
  • 悪戯書き

しかし昔は今ほど悪い意味ではなく、

「少し困らせる程度の遊び」

くらいの意味でした。


戯れ(たわむれ)

こちらは「悪」がありません。

つまり

心を遊ばせること

です。

例えば

  • 子猫が戯れる
  • 春風と戯れる
  • 子どもが波と戯れる

自然や人との穏やかな触れ合いを表します。

文学では恋愛にも使われます。


ふざける

語源は

巫山戯る(ふざける)

と言われています。

「巫山」は中国の山の名前。

神秘的で夢幻的な世界を表し、

そこから

「現実離れした振る舞い」

という意味になりました。

現在では

  • 冗談を言う
  • 真面目にしない

という意味で使われます。


趣(おもむき)がある

趣とは

物事の奥にある味わい

です。

派手さではありません。

例えば

  • 古民家
  • 苔むした庭
  • 古い神社

などを見て

「趣がある」

と言います。

時間が育てた美しさです。


洒落ている

「洒落」は

洗練されていて気が利いていること

です。

例えば

  • 洒落たカフェ
  • 洒落た服装
  • 洒落た言い回し

また

「しゃれ(駄洒落)」も同じ語源です。

言葉で遊ぶことも「洒落」なのです。


風流(ふうりゅう)

これは日本人がとても大切にしてきた感覚です。

風流とは

自然や季節を楽しむ心

です。

例えば

  • 月を見る
  • 蛍を見る
  • 雨音を楽しむ
  • 茶を飲む
  • 花を愛でる

利益とは関係ありません。

心が豊かになる時間です。


面白い共通点

これらの言葉には

「遊び」

という共通点があります。

しかし、

遊びにも段階があります。

言葉遊びの質
悪戯人を困らせる遊び
戯れ心を遊ばせる
ふざける真面目さを崩す
洒落知性で遊ぶ
心で味わう
風流人生そのものを楽しむ

【考 察】

日本人は昔から「遊び」を単なる娯楽とは考えていませんでした。

仕事ばかりでもなく、勉強ばかりでもなく、人生には余白が必要だと知っていたのです。

その余白が、言葉では「戯れ」となり、美意識では「趣」となり、感性では「風流」となり、知性では「洒落」となりました。

一方で、その余白が相手を傷つける方向へ向かえば「悪戯」と呼ばれ、場をわきまえず真面目さを欠けば「ふざける」と言われます。

つまり違いは、「遊ぶ」という行為そのものではなく、その遊びが誰かを豊かにするか、困らせるかにあります。

古人は「遊び」を否定したのではなく、その質を見極めようとしてきたのでしょう。

柏の葉学園の先生の愛情

先日、公園での活動中の一枚です。

子どもたちは橋の向こうに集まり、何かを見ています。

その少し後ろから、先生がそっとカメラを向けています。

この写真を見ていると、ふと思います。

先生の仕事は、

子どもを管理することではなく、

子どもの成長を見守ることなのだと。

子どもたちは毎日少しずつ成長しています。

友達と話せるようになった。

順番を待てるようになった。

最後まで頑張れるようになった。

でも、その成長はとても小さく、

忙しい毎日の中では見逃してしまうこともあります。

だから先生たちは見ています。

子どもたちが何に興味を持ったのか。

どんな表情をしたのか。

どんな言葉を話したのか。

どんな小さな成功があったのか。

写真を撮るのも、

記録を書くのも、

その一瞬一瞬を大切にしたいからです。

愛情とは、

何でもしてあげることではありません。

愛情とは、

その子の成長を信じて待つこと。

困った時には支え、

頑張った時には一緒に喜び、

失敗した時にはもう一度挑戦できるよう背中を押すことです。

柏の葉学園の先生たちは、

子どもたちの「今」だけを見ているのではありません。

その先の未来も見ています。

数年後、

大人になった時、

社会に出た時、

自分の力で歩いていけるように。

そんな願いを込めながら、

今日も子どもたちの後ろから、

そっと成長を見守っています。

目立たなくてもいい。

主役は子どもたちだから。

先生たちは今日も、

一歩後ろから応援しています。

森のふくろう先生のひとりごと

可愛い子には旅をさせよ

こんにちは。

森の真ん中の大きなクスノキに住む、300歳のふくろう先生です。

子どもが困っていると、

つい手を貸したくなります。

転びそうなら支えたくなるし、

失敗しそうなら止めたくなります。

だって可愛いのですから。

でも、昔の人は言いました。

「可愛い子には旅をさせよ」

これは、

遠くへ行かせなさいという意味ではありません。

苦労や失敗を経験させなさい、

という意味です。

転んだから歩き方を覚える。

失敗したから考えるようになる。

悔しい思いをしたから強くなる。

成長は、いつも少しの困難と一緒にやってきます。

親は子どもの人生を代わりに歩くことはできません。

だからこそ、

小さな挑戦を見守ることが大切です。

助けることも愛情。

見守ることも愛情。

その両方が子どもを育てます。

種は急いでも芽を出しません。

けれど、自分の力で土を押し上げた芽は、

強く大きく育つのです。

森のふくろう先生のひとりごと

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「存分」と「やり放題」の違い

こんにちは。

森のはずれの大きなクヌギの木で暮らしている、300歳のふくろう先生です。

先日、森の子どもたちにこう言いました。

「今日は存分に遊びなさい。」

すると子ダヌキが言いました。

「先生!存分にってことは、池に飛び込んでもいいし、畑の野菜を全部食べてもいいんだよね?」

先生は思わず羽を落としそうになりました。

いやいや。

それは『存分』ではなく『やりたい放題』です。

どうやら最近、「存分」という言葉を勘違いしている動物が増えているようです。

本来の『存分』とは、

「力を十分に発揮すること」
「思い切り取り組むこと」

です。

決して、

「ルールを無視して好き勝手にすること」

ではありません。

もし『存分』が『やりたい放題』なら、

ウサギは毎日ニンジン畑を荒らし、

サルは他人の木の実を全部食べ、

クマは冬眠せずに一年中寝ているでしょう。

それでは森は成り立ちません。

さて、もうひとつ気になる言葉があります。

それは『適当』です。

先生が、

「この枝を適当な長さに切ってください」

と言うと、

若いカラスがこう言いました。

「適当ってことは適当にやればいいんですね!」

バキッ!

ボキッ!

メキメキ!

……結果、巣が半分崩れました。

『適当』とは本来、

「ちょうどよい」
「ふさわしい」

という意味です。

決して、

「どうでもいい」

ではありません。

むしろ反対です。

状況をよく見て判断する、高度な言葉なのです。

ところが不思議なことに、

辞書を開かなくなった人ほど言葉を軽く扱い、

本を読まなくなった人ほど言葉の意味を決めつけます。

森でも同じです。

地図を見たことのないモグラほど、

道案内に自信満々だったりします。

少し厳しいことを言えば、

知らないことは恥ではありません。

先生も300年生きていますが、今でも知らないことだらけです。

しかし、

「知らないままでいい」

と思ってしまうのは少し危険です。

言葉を学ぶということは、

ただ賢くなるためではありません。

人の話を正しく理解し、

自分の思いを正しく伝えるためです。

言葉を間違えると、

時には人間関係まで間違えてしまいます。

だから先生は今日も本を開きます。

そして知らない言葉に出会うたびに調べます。

種は急いでも芽を出しません。

けれど学び続けた種は、

いつか大きな木になります。

さて。

あなたは最近、辞書を開きましたか?

ぼくは泥だんご

こんにちは。

ぼくは泥だんごです。

ただの土じゃありません。

泥だんごです。

さっきまで地面の中にいました。

誰にも気づかれず、

踏まれたり、

蹴られたりしながら過ごしていました。

ところが今日、

小さな手がぼくを見つけました。

「これで作ろう!」

そう言って集められ、

水をかけられ、

ギュッギュッと握られました。

正直に言います。

最初はひどいものでした。

ボロボロ。

グチャグチャ。

丸くなる気配もありません。

でも、その子はあきらめませんでした。

崩れても作り直し。

割れても作り直し。

手も服も泥だらけです。

それでも、

何度も何度も丸めてくれました。

そして気がつくと、

ぼくはこんなに立派な泥だんごになっていました。

大人の人は言うかもしれません。

「ただの泥だんごだね。」

でも違います。

ぼくの中には、

その子の時間が入っています。

工夫が入っています。

失敗が入っています。

頑張りが入っています。

だから、

ぼくはただの泥だんごではありません。

その子の挑戦のかたまりです。

ピカピカの宝石には負けるかもしれません。

でも、

世界中を探しても、

まったく同じ泥だんごはありません。

だって、

ぼくはあの子が作った、

世界にひとつだけの作品だからです。

今日もぼくは誇らしい気持ちで、

小さな手のひらの上にいます。

「見て!」

という声と一緒に。

そして、もし話せるなら、

こう言いたいのです。

「ありがとう。

あきらめずに作ってくれて。」

泥だんごのぼくは知っています。

立派なものは、

最初から立派だったわけではないことを。

よみもの:「今日は行きたくない」

朝の玄関で、翔太は靴を履かずに立っていた。

「どうしたの?」

母の美咲が声をかけると、翔太は小さな声で言った。

「今日、サッカー行きたくない」

美咲は少し驚いた。
翔太は半年前からサッカー教室に通っている。

最初は楽しそうだった。
けれど最近、練習が少し難しくなってきていた。

「どうして?」

「だって、疲れるし。コーチに注意されるし。うまくできないし」

翔太は下を向いたまま答えた。

美咲は、胸が少し痛くなった。
嫌がる子どもを無理に行かせるのはかわいそう。
泣きそうな顔を見ると、休ませてあげたくなる。

「そんなに嫌なら、今日は休む?」

そう言いかけたとき、後ろから父の健太が声をかけた。

「翔太、本当に行きたくないのか?」

翔太はうなずいた。

「うん。行きたくない」

健太はしゃがんで、翔太と目の高さを合わせた。

「そっか。行きたくないんだな。疲れるし、注意されるし、うまくできないから嫌なんだな」

翔太は、またうなずいた。

「うん」

健太は少し黙ってから、ゆっくり言った。

「その気持ちは分かるよ。でもな、そういう気持ちは翔太だけじゃないんだ」

翔太が顔を上げた。

「え?」

「面倒くさいな、行きたくないな、うまくできないから嫌だな、注意されるの嫌だな。そういう気持ちは、みんなある。お父さんにもあった。お母さんにもあったと思う」

美咲も静かにうなずいた。

「でもね、翔太」

健太は続けた。

「嫌だからすぐやめる。行きたくないから行かない。そればかりにしていると、少し嫌なことがあるたびに逃げるようになってしまうんだ」

翔太は黙って聞いていた。

「もちろん、本当に苦しいなら休んでいい。本当に体がつらいなら、無理しなくていい。誰かにひどいことをされているなら、お父さんとお母さんは絶対に守る」

健太の声はやさしかった。

「でも、今日の翔太の『行きたくない』は、どうだろう。少し疲れるから。うまくできないから。注意されるのが嫌だから。そういう気持ちじゃないか?」

翔太は少し口をとがらせた。

「だって、リフティングできないんだもん」

「できないから練習するんだよ」

健太は真剣に言った。

「できることだけやっていたら、できないことはずっとできないままだ」

翔太は何も言わなかった。

美咲はその様子を見ながら、以前の自分を思い出していた。

前にも翔太は「行きたくない」と言った。
そのとき美咲は、すぐに休ませた。
「本人が嫌だと言っているから」と思った。

けれど本当は、美咲自身も思っていた。

もう少し続けた方がいい。
途中で投げ出さない経験も必要だ。
うまくいかないことを乗り越えてほしい。

でも、それを言えなかった。

嫌われたくなかった。
泣かせたくなかった。
無理をさせる親だと思われたくなかった。

それは翔太のためだったのか。
それとも、自分が向き合うことから逃げていただけだったのか。

美咲は深く息を吸った。

「翔太」

今度は美咲が言った。

「お母さんも、翔太の気持ちは分かるよ。行きたくない日もあるよね。うまくできないと嫌になるよね」

翔太は小さくうなずいた。

「でも、お母さんは、今日は行った方がいいと思う」

翔太が母を見た。

「なんで?」

「うまくできないから。だから、行った方がいいと思う」

美咲は言葉を選びながら続けた。

「できないことから逃げない練習をしてほしい。少し嫌でも、やるべきことをやる力をつけてほしい。全部が楽しいことばかりじゃないって、少しずつ分かってほしい」

翔太は不満そうだった。

「でも、嫌だ」

「うん。嫌なんだよね」

美咲は翔太の肩に手を置いた。

「嫌でも、行こう」

その言葉は冷たくなかった。
けれど、はっきりしていた。

翔太は目に涙をためた。

「お母さん、ひどい」

美咲の胸がまた痛んだ。

けれど、今日は引き下がらなかった。

「ひどいと思うかもしれない。でも、お母さんは翔太のために言っているよ。今日だけ頑張ってみよう。終わったら、何が嫌だったか一緒に話そう」

健太も言った。

「今日行って、それでも本当に無理だと思ったら、また考えよう。でも、行く前から逃げるのはやめよう」

翔太はしばらく黙っていた。

やがて、ゆっくり靴を履いた。

「……今日だけだからね」

美咲はほっとした顔をした。

「うん。今日、頑張ってみよう」

その日の夕方。

翔太は汗だくで帰ってきた。
玄関を開けるなり、少し得意そうに言った。

「今日、リフティング3回できた」

美咲は笑った。

「すごいじゃない」

「でも、コーチにまた注意された」

「そっか。そんなこともあるよ」

「ちょっと嫌だった。でも、前よりできた」

健太が言った。

「行ってよかったか?」

翔太はすぐには答えなかった。

少し考えてから、照れくさそうに言った。

「まあ……ちょっとだけ」

美咲はその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。

子どもの「嫌だ」は、本当の限界のこともある。
だから、大人は耳を傾けなければならない。

でも、すべての「嫌だ」が、逃がしてあげるべき理由とは限らない。

面倒くさい日もある。
うまくいかない日もある。
注意されて嫌になる日もある。
少ししんどい日もある。

それは誰にでもある。
そして、そういう日を乗り越えることで、子どもは少しずつ強くなる。

美咲は思った。

子どもの気持ちを聞くことは大切。
でも、子どもの言う通りにすることだけが愛情ではない。

「嫌でもやるべき時がある」
「できないことから逃げないことも大切」
「思い通りにならない経験が、人を育てる」

それを教えるのも、親の役目なのだ。

夜、翔太は眠る前に言った。

「お母さん」

「なに?」

「次のサッカーも……、行きたくないって言っちゃうかも……」

美咲は笑って答えた。

「その時は、また一緒に考えよう。でも、まずは行ってみよう」

翔太は少しだけ笑った。

「うん」

美咲は部屋の明かりを消した。

暗くなった部屋で、翔太は小さな声で言った。

「リフティング、今度は5回できるかな」

美咲は静かに答えた。

「きっとできるよ」

その声は、子どもを押しつける声ではなかった。
子どもの言いなりになる声でもなかった。

子どもを信じて、少し先へ導く声だった。

泥んこ遊び・水遊びは最高の学び!

~感覚遊びが子どもの心と体を育てる理由~

「汚れるからやめて!」
「服が泥だらけになる!」

大人は・・・ついそんな言葉が口から出てしまいます。

でも、子どもたちにとって泥んこや水遊びは、最高に楽しい(^_-)-☆遊びの一つです。
そして、ただ遊んでいるだけではありません。

実は、脳と身体を育てる大切な学習の時間なのです。

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感覚遊びとは?

感覚遊びとは、

  • 触る
  • 握る
  • こねる
  • 聞く
  • 嗅ぐ
  • 見る

といった五感を使って楽しむ遊びのことです。

泥の冷たさ

砂のザラザラ感

水の流れる音

濡れた地面の感触

これらを身体全体で感じることで、脳にはたくさんの刺激が送られます。

子どもは頭で理解する前に、まず身体で世界を学んでいるのです。


泥んこ遊びで育つ力

① 感覚統合の力

泥を握ると柔らかい。

乾いた砂はサラサラ。

水を入れるとドロドロになる。

こうした様々な感覚を経験することで、脳は情報を整理する力を身につけます。

この力を「感覚統合」と呼びます。

感覚統合が育つと、

  • 落ち着いて座れる
  • 集中できる
  • 力加減が分かる
  • 身体を上手に使える

といった成長につながります。


② 想像力・創造力

大人にはただの泥山。

でも子どもには、「トンネル」「ダム」「お城」「秘密基地」・・・
に見えています。

決まった遊び方がないからこそ、自分で考える力が育ちます。


③ 問題解決力

「水を流したら崩れた!」

「もっと深く掘ろう!」

「ここを固めればいいかも!」

遊びの中で何度も失敗しながら考えます。

実はこれが将来の学習や仕事にもつながる大切な力です。


水たまりは最高の実験室

子どもは水たまりを見つけると近づきます。

それは本能です。

水を流してみる。

手で触る。

足で踏む。

葉っぱを浮かべる。

こうした遊びは、まるで小さな科学実験。

「どうなるんだろう?」

という探究心が育っています。


汚れることにも意味がある

泥で汚れた手。

濡れた服。

真っ黒になった靴。

大人にとっては洗濯物が増える面倒くさい事でしょう。

汚れることを気にしていては得られない経験があります。

時には「今日は思い切り汚れておいで!」と言える環境も大切です。

汚れた洋服や靴を
「いっぱい遊んできたね」
「楽しかったでしょう」等と話をしながら、
一緒に洗うのも、
楽しいし!いいお勉強になりますよ(*^^)v

子どもながらに、汚れた洋服を洗うってこんなに大変なんだ。
いつもお母さんきれいにしてくれているよな。
ありがとう。
・・・なんて感じるかもしれません。

「嫌だからやらない」で終わらせない大人の関り

子どもの「やりたくない」を、そのまま優先してよいのか

「子どもが行きたくないと言うから」
「子どもがやりたくないと言うから」
「子どもが辞めたいと言うから」

習い事、スポーツ、勉強、学校行事、家庭での役割。
子どもが嫌がったとき、大人はその言葉をどう受け止めるべきでしょうか。

もちろん、子どもの気持ちを無視してよいという話ではありません。
子どもにも感情があり、不満や不安、苦しさを感じることがあります。

ただし、それらの感情の多くは、決して特別なものではありません。

「面倒くさい」
「行きたくない」
「うまくできないから嫌だ」
「注意されるのが嫌だ」
「少ししんどい」

こうした気持ちは、誰もが成長の過程で経験するものです。

子どもはまだ経験が少ないため、目の前のつらさを大きく感じてしまいます。
今の不快感、今の面倒くささ、今の不満が、本人の中では最優先になってしまうのです。

しかし、大人から見れば、それは人生において避けて通れない小さな壁であることも多いはずです。

大した苦労ではない。
誰もが経験すること。
そういう時もある。
それでも、やるべきことはやる。
嫌でも乗り越えなければならない場面がある。

本来、大人が子どもに教えるべきなのは、まさにそこではないでしょうか。

子どもの希望が、そのまま叶ってしまう時代

最近、子どもが「やりたくない」と言うと、その希望がそのまま叶ってしまう場面が増えているように感じます。

「子どもが行きたくないと言うから、行かせません」
「子どもがやりたくないと言うから、やらせません」
「子どもが辞めたいと言うから、辞めさせます」

もちろん、本当に限界を迎えている子どもを無理に続けさせるべきではありません。
心や体に大きな負担があるなら、休ませることも、環境を変えることも必要です。

しかし、すべてがそうとは限りません。

少し面倒だから。
少し怒られたから。
少しうまくいかなかったから。
少し友だちと合わなかったから。
少し疲れたから。

そうした理由であっても、子どもの「嫌だ」という言葉が最優先されてしまう。

けれど、本当にそれでよいのでしょうか。

お父さんお母さんに聞くと、こう返ってくることがあります。

「私たちは行った方がよいと思っている」
「私たちはやった方がよいと思っている」
「私たちは続けた方がよいと思っている」

そう思っているにもかかわらず、子どもが嫌がるからやめさせる。
大人として本当は必要だと思っていることを、子どもに伝えきれない。
子どもに嫌われたくない。
泣かせたくない。
強く言うのがかわいそう。
親子関係が悪くなるのが怖い。

その気持ちは分かります。

しかし、大人が「この子のためになる」と思っていることを言えないまま、子どもの希望だけを通してしまうのは、本当に子どものためになっているのでしょうか。

子どもはまだ、正しく判断する材料を持っていない

子どもは成長の途中です。

物事の分別がまだ十分についていない年齢があります。
良し悪しを自分だけで判断するには、経験が足りない段階があります。
今は嫌でも、続けた先に得られるものがあります。
今は面倒でも、後になって「あの時やっておいてよかった」と分かることがあります。

しかし子どもは、まだその先を十分に想像できません。

子どもにとっては、今のつらさがすべてです。
今の面倒くささがすべてです。
今の不満がすべてです。

だからこそ、目の前の嫌なことから逃げたいと思う。
楽な方を選びたいと思う。
やめたい、行きたくない、やりたくないと言う。

これは子どもとして自然な反応です。

だからといって、その判断をすべて正しいものとして扱ってよいのでしょうか。

もし子どもがすべて自分で正しく判断できるのであれば、教育も子育ても必要ありません。
けれど実際には、子どもにはまだ見えていない世界があります。
経験した大人だからこそ分かることがあります。

その大人が何も言わず、何も導かず、ただ「本人が嫌だと言っているから」と引き下がってしまう。
それは、子どもの意思を尊重しているように見えて、実は子どもに判断を丸投げしているだけではないでしょうか。

「嫌だからやらない」で終わらせてよいのか

子どもが「嫌だ」と言ったとき、大人が教えるべきことがあります。

それは、世の中には「嫌でもやるべき時がある」ということです。

「嫌だからやらない」ではなく、
「嫌でもやるべき時がある」
「少しつらくても続けることで力がつく」
「不満があっても、すぐに逃げない」
「思い通りにならないことを乗り越える」

こうしたことを、子どもは経験の中で学んでいきます。

我慢する力。
続ける力。
踏ん張る力。
気持ちを切り替える力。
うまくいかなくても、もう一度やってみる力。

これらは、楽しいことだけをしていて身につくものではありません。
嫌なこと、面倒なこと、少しつらいことを乗り越える中で育っていくものです。

子どもの「つらい」「嫌だ」という気持ちだけを優先してしまえば、子どもは乗り越える経験を失ってしまいます。
そして、少し嫌なことがあるたびに逃げることを覚えてしまうかもしれません。

もちろん、本当に追い詰められている子どもに「我慢しなさい」と言い続けるのは違います。
しかし、何でもかんでも「嫌ならやめていい」にしてしまうことも、子どもの成長を奪ってしまいます。

限界なのか。
甘えなのか。
一時的な感情なのか。
環境に問題があるのか。
乗り越えるべき壁なのか。
本当にやめるべき状況なのか。

ここを判断するのは、やはり大人の役割です。

「尊重」と「放任」は違う

子どもの意見を聞くことは大切です。
しかし、子どもの意見をそのまま最終決定にすることとは違います。

「嫌なんだね」
「つらいんだね」
「どうしてそう思うの?」
「何が一番しんどいの?」

まずは聴く。
これは必要です。

けれど、聞いたあとに大人が何も言わないのなら、それは教育ではありません。

「そう感じるのは分かる」
「でも、それを乗り越えることも大切だよ」
「お父さんお母さんは、ここまでは頑張ってほしいと思っている」
「なぜなら、これはあなたの力になると思うから」

このように、大人の考えを伝えることが必要です。

子どもの気持ちを受け止めることは大切です。
しかし、ただ共感するだけで終わってはいけません。

一方で、放任とは、子どもに任せているようで、実は大人が責任を引き受けていない状態です。

「本人がそう言っているから」
「子どもが決めたことだから」
「嫌がっているから仕方ない」

この言葉で、大人が判断する責任から逃げてしまっていないでしょうか。

自由を与えることが、必ずしも優しさとは限らない

「子どもの自由を大切にしたい」
「本人の意思を尊重したい」

この考え方自体は大切です。

しかし、まだ判断力が十分に育っていない子どもに、すべての選択を委ねることは、時に酷なことでもあります。

何も備わっていない子どもに判断を委ねる。
経験の少ない子どもに自由だけを与える。
その結果、子どもは目先の楽な方を選んでしまう。

これは本当に優しさなのでしょうか。

子どもは自由を与えられると、どうしても今の快・不快で判断しやすくなります。
長い目で見た成長よりも、今の気分を優先しやすい。
将来のためになることよりも、今楽なことを選びやすい。

それは子どもが悪いのではありません。
発達の途中だから当然なのです。

だからこそ、大人が必要です。

「今は嫌でも、これは大事なことだよ」
「もう少し続けてみよう」
「途中で投げ出さず、ここまではやってみよう」
「あなたの気持ちは分かる。でも、これは必要な経験だと思う」

こうした言葉をかけることは、押しつけではありません。
子どもを善い方向へ導くための、大人の責任です。

教育とは、子どもを善い方向へ導くこと

本来、教育や子育てとは、子どもがまだ知らないことを教えることです。
善いことと悪いことを伝えることです。
我慢する力、続ける力、努力する力、礼儀、責任感を育てることです。

つまり、子どもを善い方向へ導くこと。
「善導」することです。

大人が一方的に支配することではありません。
親の理想を押しつけることでもありません。
子どもの心を無視して、無理やり従わせることでもありません。

しかし、大人が本当に「この子のためになる」と思うなら、それを言葉にして伝える責任があります。

「あなたが嫌だと言っていることは分かる」
「でも、お父さんお母さんは、これは続けた方がいいと思っている」
「なぜなら、こういう力が身につくから」
「ここまでは頑張ってみよう」
「それでも本当に無理なら、もう一度一緒に考えよう」

このように、子どもの気持ちを受け止めながらも、大人の考えをしっかり伝える。
これが子育てではないでしょうか。

大人が大人であることをやめてはいけない

子どもの声を聴くこと。
子どもの気持ちを大切にすること。
それは、今の子育てにおいてとても重要です。

しかし同時に、大人が大人として立つことも必要です。

子どもに寄り添うことと、子どもの言いなりになることは違います。
子どもの意思を尊重することと、子どもに判断を丸投げすることは違います。
優しくすることと、必要なことを言わないことは違います。

子どもは、最初から正しい判断ができるわけではありません。
だからこそ、家庭があり、親がいて、先生がいて、大人がいます。

子どもが「嫌だ」と言ったときに、ただ引き下がるのではなく、
「なぜ嫌なのか」を聞き、
「それでも大切なことは何か」を考え、
「大人としてどう導くべきか」を判断する。

そこにこそ、教育と子育ての本質があるのではないでしょうか。

教育の機会が損なわれている現状

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― 親の介入、世論への恐怖、そして子どもが失っているもの ―

今、子どもたちの「教育の機会」が、少しずつ損なわれているように感じます。

学校に行けているかどうか。
授業を受けているかどうか。
宿題をしているかどうか。

もちろん、それらも大切です。

けれど、本当に大切な教育の機会とは、もっと広いものではないでしょうか。

失敗すること。
叱られること。
我慢すること。
自分で考えること。
人とぶつかること。
思い通りにならない経験をすること。
そして、その中で少しずつ自分を整えていくこと。

これらもまた、子どもにとって大切な教育です。

しかし近年、その機会が大人によって先回りして奪われている場面が増えているように思います。

親が介入しすぎる。
子どもが困る前に助ける。
子どもが傷つく前に守る。
子どもが怒られる前に説明する。
子どもが失敗する前に道を整える。

一見すると、愛情深い関わりに見えます。

しかし、子どもが本来経験すべき「困る」「考える」「やり直す」「謝る」「乗り越える」という機会まで奪ってしまうとしたら、それは本当に子どものためなのでしょうか。

子どもは失敗の中で学びます。
叱られる中で境界を知ります。
我慢の中で心の筋力をつけます。
人との衝突の中で、自分以外の存在を知ります。

大人がすべてを取り除いてしまえば、子どもは安全に見えます。
けれど、その安全は本物の強さにはつながりません。


また、教育現場にも大きな変化があります。

先生や支援者が、子どものために必要な指導をしようとしても、世論や保護者の反応を恐れて踏み込めない。
「厳しすぎると言われるのではないか」
「問題にされるのではないか」
「誤解されるのではないか」

そんな不安が、教育の現場から本来必要な関わりを奪っているように感じます。

もちろん、体罰や人格否定は決して許されません。
子どもの尊厳を傷つける指導は、教育ではありません。

けれど、必要な注意や指導、ルールの提示まで避けてしまえば、子どもは社会の中で生きるための大切な力を身につけることができません。

「それはしてはいけない」
「今は我慢する時」
「人に迷惑をかけたら謝る」
「自分の気持ちだけでは通らないことがある」

こうした当たり前のことを、子どものうちに大人が伝えること。
それは、決して冷たい関わりではありません。

むしろ、子どもが将来困らないための、大人からの責任ある愛情です。

今の社会は、子どもの気持ちを大切にする方向へ進んできました。
それ自体は、とても大切なことです。

しかし、「子どもの気持ちを大切にすること」と、「子どもの言い分をすべて通すこと」は違います。

「子どもを守ること」と、「子どもから経験を奪うこと」も違います。

「寄り添うこと」と、「大人が責任を放棄すること」も違います。

教育とは、子どもにとって心地よいことだけを与えるものではありません。
時には耳の痛いことを伝える。
時には立ち止まらせる。
時には我慢を求める。
時には自分の行動を振り返らせる。

その積み重ねの中で、子どもは少しずつ社会の一員として育っていきます。

大人が恐れている間に、子どもは学ぶ機会を失っていきます。

親が先回りしすぎることで、子どもは自分で考える力を失う。
現場が世論を恐れすぎることで、子どもは必要な指導を受ける機会を失う。
社会が「厳しさ」をすべて悪と見なすことで、子どもは乗り越える経験を失う。

これは、子どもにとって本当に幸せなことでしょうか。

子どもを大切にするとは、ただ守ることではありません。
子どもを信じて、経験させること。
失敗しても立ち上がれるように、そばで見守ること。
必要な時には、大人が大人として伝えること。

教育の機会とは、机の上の勉強だけではありません。

生きる力を育てるすべての経験が、教育です。

だからこそ、私たち大人はもう一度考えなければなりません。

子どものためと言いながら、子どもから学ぶ機会を奪っていないか。
守っているつもりで、弱くしていないか。
優しさの名のもとに、大人としての責任から逃げていないか。

子どもは、転ばなければ起き上がり方を学べません。
迷わなければ、考える力は育ちません。
叱られなければ、境界を知ることはできません。
我慢しなければ、自分を律する力は身につきません。

教育とは、子どもを傷つけないように無風の場所に置くことではありません。
風の中でも立っていける力を育てることです。

そのために、親も、学校も、支援者も、社会も、もう一度「大人の役割」を取り戻す必要があるのではないでしょうか。

雨の日の室内での自由遊び、そして「反省会」

今日は午後から雨が降っていたため、室内で自由遊びを行いました。

しかし、学園の活動は「楽しかったね」で終わりではありません。

最後にみんなで集合し、今日の遊びについての「反省会」を行いました。

一人ひとりがみんなの前に立ち、自分自身の良かったところや反省点を発表しました。
人前で自分の考えを話すことは、簡単なようでとても勇気のいることです。

子どもたちからは、本当にたくさんの意見が出ました。

「楽しみすぎて、周りが見えなくなってしまった」
「仲間に入りたそうにしていた友達に気づいてあげられなかった」
「次回は、種目ごとにエリアを決めた方がいいと思った」
「決まった友達だけでなく、もっとみんなと遊べたらよかった」

特に反省点では、自分の行動をしっかり振り返る言葉が多く聞かれました。

遊びの時間をただ楽しむだけではなく、
「どうしたらもっとみんなが楽しく過ごせるか」
「自分は周りの友達にどんな関わり方ができたか」
を考えられることは、とても素晴らしい成長です。

それぞれが、それぞれの立場で考え、自分の言葉で発表する。
今日の反省会は、子どもたちの心の成長を感じる時間となりました。

雨の日の室内での自由遊びは、子どもたちにとって大切な学びの場です。
次回の活動では、今日出た意見を活かしながら、さらに楽しく、思いやりのある時間にしていきたいと思います。

学びと思考のバランス

これからブログに記す事柄は、令和8年6月19日の朝礼での講義内容を、子育てに置きかえた内容になります。

私たち、子どもの成長に係ることを、「生業」としている人間には、
とても大切な講義内容でした。

だからこそ、今子育て中のお父さんお母さんにも伝えたいと思い、ブログで発信しています。

物事の本質にたどり着ける人間になりたいものですね。

学びて思わざれば則ち罔(くら)し。
思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。

これは孔子の『論語』にある有名な言葉です。

意味は、

「学ぶだけで自分で考えなければ、本当の理解には至らない。」
「反対に、自分勝手に考えるだけで学ばなければ、危険な考えに陥る。」

ということです。

2500年以上前の言葉ですが、現代の子育てにもそのまま当てはまるように感じます。

子育ての情報はあふれている

今は、本やSNS、動画などで、簡単に情報が手に入る時代です。

「褒めて育てましょう」
「自己肯定感を育てましょう」
「個性を大切にしましょう」

どれも良く見聞きする内容であり、言葉です。

しかし、その言葉を表面的に受け取ってしまうと、本来の意味から離れてしまうことがあります。

例えば、「褒めることが大切」という言葉を聞いて、何でも褒めればよい。

叱ってはいけない。嫌な思いをさせてはいけない。

と解釈してしまう。

学んでも考えなければ「くらし」

孔子は「学びて思わざれば則ち罔し」と言いました。

情報を集めるだけでは不十分です。
なぜそうするのか。
その目的は何か。
自分の子どもに当てはめるとどうなのか。

そこまで考えて初めて学びは生きてきます。

子育ての本を10冊読んでも、

その内容の本質は何かを考え、学ばなければ、言葉の量が増えても理解は深まりません。

考えるだけで学ばなければ「あやうし」

一方で、「私はこう思う」「うちの子は大丈夫」「昔からこうだから」
という経験や感覚だけで判断することも危険です。

だからこそ学ぶ必要があります。

法律を学ぶ。

教育を学ぶ。

発達を学ぶ。

先人の知恵を学ぶ。

学ぶことで、自分の思い込みや偏見に気づくことができます。

子育てで本当に大切なこと

教育基本法第10条には、

「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」

とあります。

責任とは、思いつきで育てることではありません。

学び続けること。

考え続けること。

そして必要に応じて自分を改めることです。

子どもは親の背中を見ています。

親が学ぶ姿勢を持てば、子どもも学ぶようになります。

親が考える姿勢を持てば、子どもも考えるようになります。

本質を見る目を育てる

現代は言葉が先行しやすい時代です。

「多様性」
「自己肯定感」
「個性」
「主体性」

大切な言葉ほど、本質を理解せずに使われがちです。

だからこそ孔子の言葉が響きます。

学びて思わざれば則ち罔し。
思いて学ばざれば則ち殆し。

子育てに迷ったとき、

まず学ぶ。そして考える。さらに学び直す。

その繰り返しの中に、本当の意味で子どもを育てる力が生まれるのではないでしょうか。

小さな青いトマトに見えた「育ちの法則」

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先日子どもたちと買ってきた苗、
ミニトマトが少しずつ実をつけ始めました。

まだ青く、小さく、食べるには程遠い姿です。
けれど、この姿を見ていると、子どもたちの成長と重なって見えてきます。

私たち大人は、「トマトが実ってきた」と聞くと、
つい赤く実ったトマトを想像してしまいます。

しかし、トマトは実がついた翌日に赤くなるわけではありません。

花が咲き、
実がなり、
青い期間を過ごし、
少しずつ色づき、
やがて食べ頃になります。

どの過程も省略できません。

青い実の時期は、決して停滞しているわけではありません。

見えないところで、
しっかりと栄養を蓄え、
赤くなる準備をしています。

青いトマトを見て、「まだ赤くならないのか」とは思いません。
きっと赤くなることを知っているからです。

「種は急いでも芽を出さない。実も急いでは赤くならない。育ちとは、待つことで完成するものなのじゃ。」

君子は本を務む。本立ちて道生ず。

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ふくろう先生のひとりごと

最近、子育てについて相談を受けていると、こんな言葉をよく耳にします。

「どう褒めたら自己肯定感が上がりますか?」

「集中力をつけるにはどうしたらいいですか?」

「発達を伸ばす方法を教えてください。」

どれもお母さんたちにとっては切実な質問です。。

しかし、私は時々こんなことを考えます。

その前に、もっと大切なことはないだろうか。

中国の古い書物『論語』にこんな言葉があります。

「君子は本を務む。本立ちて道生ず。」

読み方は「くんしは もとを つとむ。もと たちて みち しょうず。」

意味は「立派な人はまず根本を大切にする。
根本がしっかりすれば、進むべき道は自然と見えてくる。


木を育てる時を想像してみてください。

葉の色が悪い。

枝の伸び方が気になる。

実がならない。

そんな時、葉っぱを磨いたり、枝先ばかりを眺めたりしても木は元気になりません。

大切なのは根です。土です。水です。

見えない部分です。


子育ても同じです。

勉強の前に生活。

生活の前に親子関係。

親子関係の前に家庭の安心感。

これらが根っこの部分です。

根が弱ければ、どんなに立派な教育方法を試しても長続きしません。

逆に根がしっかりしていれば、多少回り道をしても子どもは育っていきます。


現代は情報があふれています。

自己肯定感。非認知能力。個性尊重。主体性。…

どれも大切な言葉です。

しかし、言葉だけを追いかけていると、本来見るべきものを見失うことがあります。

子どもはこれらの言葉で育つのではありません。

毎日の暮らしの中で育ちます。

家族との会話で育ちます。

「おはよう」

「いってらっしゃい」

「おかえり」

そんな何気ない積み重ねの中で育っていきます。


子育てに迷った時は、枝葉ではなく根っこを見てみてください。

勉強ができるか?運動が得意か?……それも大切ですが、

でも、その前に

安心して眠れているだろうか。

家族で笑えているだろうか。

挨拶ができているだろうか。

人を大切にできているだろうか。

そんな根っこの部分を見つめてみてください。


種は急いでも芽を出しません。

根を張る時間が必要です。

だから焦らなくて大丈夫。

まずは根を育てること。

そうすれば、いつか必ずその子らしい花が咲きます。

君子は本を務む。本立ちて道生ず。

子育てもまた、根本を大切にすることから始まるのだと思います。

ルールは「自然に身につく」のではなく、「気づき」によって身につく

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昨日の朝礼での講義の一つ!

「ルールは自然と身につくものだ」と言われることがあります。

たしかに、日々の生活の中で何度も同じ場面を経験していると、いつの間にか行動の仕方がわかってくることがあります。学校、職場、家庭、地域社会の中で、人は周囲を見ながら「こうするものなのだ」と学んでいきます。

しかし、本当にルールは自然に身につくのでしょうか。

私は、そうではないと思います。

ルールは、ただ時間が過ぎれば身につくものではありません。


「自然」という言葉の意味

まず、「自然」という言葉には、いくつかの意味があります。

一般的には、山、川、海、空、草木、動物など、人の手が加わっていないものを指します。
たとえば「自然を大切にする」という時の自然です。

一方で、「自然に身につく」という場合の自然は、少し意味が違います。

この場合の自然とは、
「無理に意識しなくてもそうなること」
「特別に努力しているように見えず、いつの間にかそうなること」
という意味で使われています。

つまり、「ルールが自然に身につく」とは、「生活の中でいつの間にかルールを覚える」という意味になります。

けれども、ここに大切な落とし穴があります。

「自然に見えること」と「何も考えずに身につくこと」は、同じではありません。


ルールは気づきによって身につく

たとえば、廊下を走ってはいけないというルールがあります。

ただ「走ってはいけません」と言われただけでは、なぜ守る必要があるのか理解できないことがあります。
しかし、誰かとぶつかりそうになったり、小さな子が転びそうになったりする場面を見ると、人は気づきます。

「走ると危ないんだ」
「自分だけでなく、周りの人にも迷惑がかかるんだ」

この気づきがあるから、ルールはただの命令ではなく、自分の中の判断になります。

つまり、ルールを身につけるとは、言われたことを機械的に覚えることではありません。


気づきのないルールは、形だけになる

気づきがないまま守っているルールは、形だけになりやすいものです。

先生が見ているから守る。
上司に怒られるから守る。
周りに合わせるために守る。

もちろん、それも社会生活では必要な場面があります。
しかし、それだけでは本当の意味でルールが身についたとは言えません。

見ている人がいなくなった時、注意する人がいなくなった時、そのルールは簡単に崩れてしまいます。

一方で、気づきによって身についたルールは、自分の中に残ります。

「これは人を傷つけないために必要なんだ」
「これは安全を守るためにあるんだ」
「これはみんなが気持ちよく過ごすためのものなんだ」

そう理解できた時、ルールは外から押しつけられたものではなく、自分の考えとして行動に表れます。


大切なのは、ルールの理由に気づくこと

ルールを教える時に大切なのは、「守りなさい」と言うことだけではありません。

なぜそのルールがあるのか。
誰を守るためのものなのか。
守らなかった時に何が起こるのか。

そこに気づけるようにすることが大切です。

人は、意味がわからないものには納得しにくいものです。しかし、理由がわかると行動が変わります。

ルールは、人を縛るためだけにあるのではありません。
安全を守るため、人との関係を良くするため、社会をスムーズに動かすためにあります。

その意味に気づいた時、ルールは初めて自分のものになります。


まとめ

「ルールは自然に身につく」と言われることがあります。

しかし、正確には、ルールは自然に身につくのではありません。生活の中で経験し、考え、気づくことによって身についていきます。

自然に見える行動の裏側には、必ず小さな気づきがあります。

人に迷惑をかけた経験。
誰かに注意された経験。
危ない場面を見た経験。
相手の気持ちを考えた経験。

そうした一つひとつの気づきが、ルールを自分の中に根づかせていきます。

だからこそ、ルールを教える時には、ただ守らせるのではなく、気づかせることが大切です。

ルールは、自然に身につくものではありません。
ルールは、気づきによって身につくものなのです。

私たち柏の葉学園グループ職員は【朝礼】と言う名の毎朝1時間の勉強会を行っています!
そして私たち柏の葉学園グループは星槎国際高等学校柏キャンパスの附属施設でもあります。
教員免許を所持しているスタッフも沢山所属しています。

と言うことで・・・(⇓こんな確認も行います!)
■教育基本法から見る教員
教育基本法第6条第1項
法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

我々も「昨日よりも今日、今日よりも明日」日々勉強です!

子どもの話を聴いていますか?

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「聞く」と「聴く」の違い

皆さんは「聞く」と「聴く」の違いを考えたことがありますか。

どちらも同じ「きく」と読みますが、実は意味が少し違います。

「聞く」は音が耳に入ること

例えば、

朝、鳥の鳴き声が聞こえる。

遠くで救急車のサイレンが聞こえる。

教室で誰かが話している声が聞こえる。

これは特に意識しなくても耳に入ってくる状態です。

音を受け取っている状態を「聞く」と言います。

「聴く」は心を向けること

一方で「聴く」は違います。

友達の悩みを聴く。

先生の話を聴く。

家族の話を聴く。

ただ音を受け取るだけではありません。

相手が何を伝えようとしているのかを考えながら受け取ることです。

耳だけでなく、心も使っている状態です。

なぜ「聴く」が大切なのか

人は誰でも、

「自分の話を分かってほしい」

という気持ちを持っています。

しかし、話をしていても相手が上の空だったり、途中で遮ったりすると、

「分かってもらえていない」

と感じます。

反対に、

最後まで話を聴いてもらえた時、

自分を大切にしてもらえたような気持ちになります。

人間関係は「話す力」で作られるように見えますが、実は「聴く力」で作られることが多いのです。

勉強も「聴く力」から始まる

学校の勉強を考えてみましょう。

先生の説明を聴く。

友達の発表を聴く。

本を読んで作者の考えを受け取る。

どれもまずは「聴く」ことから始まります。

勉強が得意な子の中には、

話すことよりも、まずよく聴くことができる子がたくさんいます。

聴くことで理解が深まり、

理解が深まることで考える力が育つのです。

子どもが「聴ける」ようになるために

子どもに

「人の話を聴きなさい」

と言うことは簡単です。

しかし、実は大人も同じです。

子どもは大人の姿を見て育ちます。

親が子どもの話を聴く。

先生が子どもの話を聴く。

周りの大人が互いの話を聴く。

そんな環境の中で、子どもは自然と聴くことを学びます。

最後に

神様は人間に口を一つ、耳を二つ与えました。

これは、

話すよりも二倍聴きなさい、

という意味だと言われることがあります。

聞くことは音を受け取ること。

聴くことは心を受け取ること。

勉強も、人間関係も、成長も、

すべては「聴くこと」から始まるのかもしれません。

「喜怒哀楽」人間の感情を豊かに表現できていますか?

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以前アップしたブログの再投稿になります!

今日は、柏の葉学園グループでも大切にしている「喜怒哀楽」について考えていきたいと思います。

ところで、みなさん!「喜怒哀楽」を場面に応じた適切な形で表現できていますか?

私自身、この教育(福祉)業界に携わり20年以上が経ちます。
ここ最近特に強く感じるのは、人間が本来持つ感情を適切な場面で!適当な感情を!表現することができない子どもや適切な感情表現を知らない子どもが多くいること、そして子どもたちと同様に親御さんも多いということです。


そもそも、「喜怒哀楽」とはどいうことでしょうか?
辞書で調べてみましょう。

喜怒哀楽とは? (広辞苑第七版)
喜びと怒りと悲しみと楽しみ。
人間の様々な感情。

更にもっと深く調べてみると、

「喜怒哀楽」は、四書五経の中の1つ【中庸】の中にも「喜怒哀楽の発露は節度に適していることが大切」と記されています。

喜怒哀楽とは、人間のもつ様々な感情であり、これらの感情がいきすぎず、足りなさすぎず、適度に調和がとれている状態が大切でこれを【中庸】といいます。

次は、「中庸」という言葉を調べてみましょう。

中庸とは? (広辞苑第七版)
かたよらず常にかわらないこと。
アリストテレスの徳論の中心概念。過剰と不足との中間を思慮によって定めること。


柏の葉学園グループでは子どもたちとの関わりの中で「喜怒哀楽」の感情を豊かに織り交ぜながら支援を提供しています。
また、「喜怒哀楽」を表現する中で「時間(長さ)」を大切にしています。

喜び:長く表現

怒り:できるだけ短く表現

哀しみ・悲しみ:なるべく短い方が良い

楽しさ:長く表現

「喜・怒・哀・楽」→「長・短・短・長」

そして、陰陽の法則からも考えています。

「喜・怒・哀・楽」→「陽・陰・陰・長」

陰陽の法則から考えた「喜怒哀楽」を絵で表現したもの。

最近は子どもとの関わりの中で「喜・楽」ばかり強調され、「怒・哀」の経験が乏しい子どもたちが溢れています。

最近の子どもたちが経験している「喜怒哀楽」の状況を絵で表したもの。

ドーナツのような形ですね。

そう!ボールをイメージしてもらうと分かりやすいと思います。
中身がスカスカの(空気の入っていない)ボールは、弾みません!
様々なアプローチをしても跳ね返ってこない・・・のです!

跳ね返ってこない!!

当然のこと!だって「中がスカスカ」ということは「芯がない」ということ!

では?具体的には?どういうこと??

この例を一つご紹介します。
例えば、情操にうったえるための!情操を刺激するための!絵本の読み聞かせをしていても、「喜怒哀楽」の中で「怒哀」の経験が少ない子どもたちは、なかなか響きません。
周りの子どもたちが絵本の内容に合わせて「笑ったり」「しかめっ面をしてみたり」「怒ってみたり」「泣いてみたり」・・・そんな反応をしていても、“ぽか~ん”としています。
もちろん、絵本の中の好きな絵やキャラクターなどには反応はしますが、内容に寄り添うことが難しい💦

考えてみれば当然のことで、状況にあった感情表現の経験が乏しい故、
分からないのです。

また別の例をご紹介すると、
本来、子どもが「やってはいけない事」をした時、
例えばお友だちを叩いてしまった時、
「こら!お友だちを叩いてはいけないでしょ。人の嫌がることをしてはいけません。」と叱らなければならないところを、「○○くんがそんなことするとお母さん悲しい・・・」なんて言われて育った子は、自身の非を認めることも!省みることも!もちろん謝ることも!できない子に育ちます。
挙句の果てには人のせいにする。
そんな子どもたちをたくさん見てきています。

これらは、世の中の風潮、勉強をしなさすぎる(物事の本質を見極められない)世の流れに起因すると思っています。
我々大人は、誰かが言っていたからとか有名人がテレビでコメントしてたからとか育児本に書いてあったからとか・・・そんな上辺だけではいけない。
しっかり、法律を読み歴史を調べ書籍を読み勉強しなければいけないと思います。

今回注目した「喜怒哀楽」という1つの言葉だけみても、
思考によりこんなにも差異が生じている・・・。

今日のまとめとして

「喜怒哀楽」という言葉で表現されている人間の様々な感情を、偏ることなく豊かに表現していきたいものですね。→これを【中庸】といいます!