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タグ: お知らせ

森のふくろう先生のひとりごと

可愛い子には旅をさせよ

こんにちは。

森の真ん中の大きなクスノキに住む、300歳のふくろう先生です。

子どもが困っていると、

つい手を貸したくなります。

転びそうなら支えたくなるし、

失敗しそうなら止めたくなります。

だって可愛いのですから。

でも、昔の人は言いました。

「可愛い子には旅をさせよ」

これは、

遠くへ行かせなさいという意味ではありません。

苦労や失敗を経験させなさい、

という意味です。

転んだから歩き方を覚える。

失敗したから考えるようになる。

悔しい思いをしたから強くなる。

成長は、いつも少しの困難と一緒にやってきます。

親は子どもの人生を代わりに歩くことはできません。

だからこそ、

小さな挑戦を見守ることが大切です。

助けることも愛情。

見守ることも愛情。

その両方が子どもを育てます。

種は急いでも芽を出しません。

けれど、自分の力で土を押し上げた芽は、

強く大きく育つのです。

ぼくは泥だんご

こんにちは。

ぼくは泥だんごです。

ただの土じゃありません。

泥だんごです。

さっきまで地面の中にいました。

誰にも気づかれず、

踏まれたり、

蹴られたりしながら過ごしていました。

ところが今日、

小さな手がぼくを見つけました。

「これで作ろう!」

そう言って集められ、

水をかけられ、

ギュッギュッと握られました。

正直に言います。

最初はひどいものでした。

ボロボロ。

グチャグチャ。

丸くなる気配もありません。

でも、その子はあきらめませんでした。

崩れても作り直し。

割れても作り直し。

手も服も泥だらけです。

それでも、

何度も何度も丸めてくれました。

そして気がつくと、

ぼくはこんなに立派な泥だんごになっていました。

大人の人は言うかもしれません。

「ただの泥だんごだね。」

でも違います。

ぼくの中には、

その子の時間が入っています。

工夫が入っています。

失敗が入っています。

頑張りが入っています。

だから、

ぼくはただの泥だんごではありません。

その子の挑戦のかたまりです。

ピカピカの宝石には負けるかもしれません。

でも、

世界中を探しても、

まったく同じ泥だんごはありません。

だって、

ぼくはあの子が作った、

世界にひとつだけの作品だからです。

今日もぼくは誇らしい気持ちで、

小さな手のひらの上にいます。

「見て!」

という声と一緒に。

そして、もし話せるなら、

こう言いたいのです。

「ありがとう。

あきらめずに作ってくれて。」

泥だんごのぼくは知っています。

立派なものは、

最初から立派だったわけではないことを。

森のふくろう先生のひとりごと

ワールドカップが教えてくれること

こんばんは。

森のはずれのクスノキに住む、300歳のふくろう先生です。

最近、森の動物たちもワールドカップの話題で持ちきりです。

子ザルはボールを蹴りながら言いました。

「先生!日本は勝てるかな?」

子ウサギも言います。

「優勝できるかな?」

すると子リスが、

「負けたら意味ないよね。」

と言いました。

その言葉を聞いて、先生は少し首をかしげました。

さて、本当にそうでしょうか。

ワールドカップに出場する国は世界中から選ばれた強豪ばかりです。

そこに立つだけでも大変なことです。

何年も努力を重ね、
何千時間も練習を積み、
悔し涙を流しながらも前を向いてきた選手たちがいます。

試合では勝つこともあれば負けることもあります。

しかし、

「勝ったから価値がある」

のではありません。

「挑戦したから価値がある」

のです。

森の学校でも同じです。

テストで100点を取る子もいます。

運動会で1位になる子もいます。

でも本当に大切なのは、

昨日の自分より少し成長できたか。

そこなのです。

ワールドカップを見ていると、

世界最高レベルの選手でさえミスをします。

シュートを外します。

パスを失敗します。

転びます。

それでも諦めません。

なぜなら、

成功する人は失敗しない人ではなく、

失敗しても立ち上がる人だからです。

森の若い動物たちは、

失敗するとすぐに落ち込んでしまいます。

でも先生は思います。

失敗とは、

「できなかった証拠」ではなく、

「挑戦した証拠」なのだと。

ワールドカップはサッカーの大会です。

しかし、本当に見てほしいのは技術だけではありません。

仲間を信じる姿。

最後まで走る姿。

苦しい時に声を掛け合う姿。

諦めない姿。

そこには人生で大切なことがたくさん詰まっています。

結果はいつか忘れられます。

けれど、

全力で挑戦した姿は人の心に残ります。

だから先生は今日も子どもたちに伝えます。

勝ち負けも大切。

でもそれ以上に、

挑戦する勇気を大切にしよう。

種は急いでも芽を出しません。

けれど挑戦し続けた種は、

いつか大きな花を咲かせるのです。

泥んこ遊び・水遊びは最高の学び!

~感覚遊びが子どもの心と体を育てる理由~

「汚れるからやめて!」
「服が泥だらけになる!」

大人は・・・ついそんな言葉が口から出てしまいます。

でも、子どもたちにとって泥んこや水遊びは、最高に楽しい(^_-)-☆遊びの一つです。
そして、ただ遊んでいるだけではありません。

実は、脳と身体を育てる大切な学習の時間なのです。

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感覚遊びとは?

感覚遊びとは、

  • 触る
  • 握る
  • こねる
  • 聞く
  • 嗅ぐ
  • 見る

といった五感を使って楽しむ遊びのことです。

泥の冷たさ

砂のザラザラ感

水の流れる音

濡れた地面の感触

これらを身体全体で感じることで、脳にはたくさんの刺激が送られます。

子どもは頭で理解する前に、まず身体で世界を学んでいるのです。


泥んこ遊びで育つ力

① 感覚統合の力

泥を握ると柔らかい。

乾いた砂はサラサラ。

水を入れるとドロドロになる。

こうした様々な感覚を経験することで、脳は情報を整理する力を身につけます。

この力を「感覚統合」と呼びます。

感覚統合が育つと、

  • 落ち着いて座れる
  • 集中できる
  • 力加減が分かる
  • 身体を上手に使える

といった成長につながります。


② 想像力・創造力

大人にはただの泥山。

でも子どもには、「トンネル」「ダム」「お城」「秘密基地」・・・
に見えています。

決まった遊び方がないからこそ、自分で考える力が育ちます。


③ 問題解決力

「水を流したら崩れた!」

「もっと深く掘ろう!」

「ここを固めればいいかも!」

遊びの中で何度も失敗しながら考えます。

実はこれが将来の学習や仕事にもつながる大切な力です。


水たまりは最高の実験室

子どもは水たまりを見つけると近づきます。

それは本能です。

水を流してみる。

手で触る。

足で踏む。

葉っぱを浮かべる。

こうした遊びは、まるで小さな科学実験。

「どうなるんだろう?」

という探究心が育っています。


汚れることにも意味がある

泥で汚れた手。

濡れた服。

真っ黒になった靴。

大人にとっては洗濯物が増える面倒くさい事でしょう。

汚れることを気にしていては得られない経験があります。

時には「今日は思い切り汚れておいで!」と言える環境も大切です。

汚れた洋服や靴を
「いっぱい遊んできたね」
「楽しかったでしょう」等と話をしながら、
一緒に洗うのも、
楽しいし!いいお勉強になりますよ(*^^)v

子どもながらに、汚れた洋服を洗うってこんなに大変なんだ。
いつもお母さんきれいにしてくれているよな。
ありがとう。
・・・なんて感じるかもしれません。

「嫌だからやらない」で終わらせない大人の関り

子どもの「やりたくない」を、そのまま優先してよいのか

「子どもが行きたくないと言うから」
「子どもがやりたくないと言うから」
「子どもが辞めたいと言うから」

習い事、スポーツ、勉強、学校行事、家庭での役割。
子どもが嫌がったとき、大人はその言葉をどう受け止めるべきでしょうか。

もちろん、子どもの気持ちを無視してよいという話ではありません。
子どもにも感情があり、不満や不安、苦しさを感じることがあります。

ただし、それらの感情の多くは、決して特別なものではありません。

「面倒くさい」
「行きたくない」
「うまくできないから嫌だ」
「注意されるのが嫌だ」
「少ししんどい」

こうした気持ちは、誰もが成長の過程で経験するものです。

子どもはまだ経験が少ないため、目の前のつらさを大きく感じてしまいます。
今の不快感、今の面倒くささ、今の不満が、本人の中では最優先になってしまうのです。

しかし、大人から見れば、それは人生において避けて通れない小さな壁であることも多いはずです。

大した苦労ではない。
誰もが経験すること。
そういう時もある。
それでも、やるべきことはやる。
嫌でも乗り越えなければならない場面がある。

本来、大人が子どもに教えるべきなのは、まさにそこではないでしょうか。

子どもの希望が、そのまま叶ってしまう時代

最近、子どもが「やりたくない」と言うと、その希望がそのまま叶ってしまう場面が増えているように感じます。

「子どもが行きたくないと言うから、行かせません」
「子どもがやりたくないと言うから、やらせません」
「子どもが辞めたいと言うから、辞めさせます」

もちろん、本当に限界を迎えている子どもを無理に続けさせるべきではありません。
心や体に大きな負担があるなら、休ませることも、環境を変えることも必要です。

しかし、すべてがそうとは限りません。

少し面倒だから。
少し怒られたから。
少しうまくいかなかったから。
少し友だちと合わなかったから。
少し疲れたから。

そうした理由であっても、子どもの「嫌だ」という言葉が最優先されてしまう。

けれど、本当にそれでよいのでしょうか。

お父さんお母さんに聞くと、こう返ってくることがあります。

「私たちは行った方がよいと思っている」
「私たちはやった方がよいと思っている」
「私たちは続けた方がよいと思っている」

そう思っているにもかかわらず、子どもが嫌がるからやめさせる。
大人として本当は必要だと思っていることを、子どもに伝えきれない。
子どもに嫌われたくない。
泣かせたくない。
強く言うのがかわいそう。
親子関係が悪くなるのが怖い。

その気持ちは分かります。

しかし、大人が「この子のためになる」と思っていることを言えないまま、子どもの希望だけを通してしまうのは、本当に子どものためになっているのでしょうか。

子どもはまだ、正しく判断する材料を持っていない

子どもは成長の途中です。

物事の分別がまだ十分についていない年齢があります。
良し悪しを自分だけで判断するには、経験が足りない段階があります。
今は嫌でも、続けた先に得られるものがあります。
今は面倒でも、後になって「あの時やっておいてよかった」と分かることがあります。

しかし子どもは、まだその先を十分に想像できません。

子どもにとっては、今のつらさがすべてです。
今の面倒くささがすべてです。
今の不満がすべてです。

だからこそ、目の前の嫌なことから逃げたいと思う。
楽な方を選びたいと思う。
やめたい、行きたくない、やりたくないと言う。

これは子どもとして自然な反応です。

だからといって、その判断をすべて正しいものとして扱ってよいのでしょうか。

もし子どもがすべて自分で正しく判断できるのであれば、教育も子育ても必要ありません。
けれど実際には、子どもにはまだ見えていない世界があります。
経験した大人だからこそ分かることがあります。

その大人が何も言わず、何も導かず、ただ「本人が嫌だと言っているから」と引き下がってしまう。
それは、子どもの意思を尊重しているように見えて、実は子どもに判断を丸投げしているだけではないでしょうか。

「嫌だからやらない」で終わらせてよいのか

子どもが「嫌だ」と言ったとき、大人が教えるべきことがあります。

それは、世の中には「嫌でもやるべき時がある」ということです。

「嫌だからやらない」ではなく、
「嫌でもやるべき時がある」
「少しつらくても続けることで力がつく」
「不満があっても、すぐに逃げない」
「思い通りにならないことを乗り越える」

こうしたことを、子どもは経験の中で学んでいきます。

我慢する力。
続ける力。
踏ん張る力。
気持ちを切り替える力。
うまくいかなくても、もう一度やってみる力。

これらは、楽しいことだけをしていて身につくものではありません。
嫌なこと、面倒なこと、少しつらいことを乗り越える中で育っていくものです。

子どもの「つらい」「嫌だ」という気持ちだけを優先してしまえば、子どもは乗り越える経験を失ってしまいます。
そして、少し嫌なことがあるたびに逃げることを覚えてしまうかもしれません。

もちろん、本当に追い詰められている子どもに「我慢しなさい」と言い続けるのは違います。
しかし、何でもかんでも「嫌ならやめていい」にしてしまうことも、子どもの成長を奪ってしまいます。

限界なのか。
甘えなのか。
一時的な感情なのか。
環境に問題があるのか。
乗り越えるべき壁なのか。
本当にやめるべき状況なのか。

ここを判断するのは、やはり大人の役割です。

「尊重」と「放任」は違う

子どもの意見を聞くことは大切です。
しかし、子どもの意見をそのまま最終決定にすることとは違います。

「嫌なんだね」
「つらいんだね」
「どうしてそう思うの?」
「何が一番しんどいの?」

まずは聴く。
これは必要です。

けれど、聞いたあとに大人が何も言わないのなら、それは教育ではありません。

「そう感じるのは分かる」
「でも、それを乗り越えることも大切だよ」
「お父さんお母さんは、ここまでは頑張ってほしいと思っている」
「なぜなら、これはあなたの力になると思うから」

このように、大人の考えを伝えることが必要です。

子どもの気持ちを受け止めることは大切です。
しかし、ただ共感するだけで終わってはいけません。

一方で、放任とは、子どもに任せているようで、実は大人が責任を引き受けていない状態です。

「本人がそう言っているから」
「子どもが決めたことだから」
「嫌がっているから仕方ない」

この言葉で、大人が判断する責任から逃げてしまっていないでしょうか。

自由を与えることが、必ずしも優しさとは限らない

「子どもの自由を大切にしたい」
「本人の意思を尊重したい」

この考え方自体は大切です。

しかし、まだ判断力が十分に育っていない子どもに、すべての選択を委ねることは、時に酷なことでもあります。

何も備わっていない子どもに判断を委ねる。
経験の少ない子どもに自由だけを与える。
その結果、子どもは目先の楽な方を選んでしまう。

これは本当に優しさなのでしょうか。

子どもは自由を与えられると、どうしても今の快・不快で判断しやすくなります。
長い目で見た成長よりも、今の気分を優先しやすい。
将来のためになることよりも、今楽なことを選びやすい。

それは子どもが悪いのではありません。
発達の途中だから当然なのです。

だからこそ、大人が必要です。

「今は嫌でも、これは大事なことだよ」
「もう少し続けてみよう」
「途中で投げ出さず、ここまではやってみよう」
「あなたの気持ちは分かる。でも、これは必要な経験だと思う」

こうした言葉をかけることは、押しつけではありません。
子どもを善い方向へ導くための、大人の責任です。

教育とは、子どもを善い方向へ導くこと

本来、教育や子育てとは、子どもがまだ知らないことを教えることです。
善いことと悪いことを伝えることです。
我慢する力、続ける力、努力する力、礼儀、責任感を育てることです。

つまり、子どもを善い方向へ導くこと。
「善導」することです。

大人が一方的に支配することではありません。
親の理想を押しつけることでもありません。
子どもの心を無視して、無理やり従わせることでもありません。

しかし、大人が本当に「この子のためになる」と思うなら、それを言葉にして伝える責任があります。

「あなたが嫌だと言っていることは分かる」
「でも、お父さんお母さんは、これは続けた方がいいと思っている」
「なぜなら、こういう力が身につくから」
「ここまでは頑張ってみよう」
「それでも本当に無理なら、もう一度一緒に考えよう」

このように、子どもの気持ちを受け止めながらも、大人の考えをしっかり伝える。
これが子育てではないでしょうか。

大人が大人であることをやめてはいけない

子どもの声を聴くこと。
子どもの気持ちを大切にすること。
それは、今の子育てにおいてとても重要です。

しかし同時に、大人が大人として立つことも必要です。

子どもに寄り添うことと、子どもの言いなりになることは違います。
子どもの意思を尊重することと、子どもに判断を丸投げすることは違います。
優しくすることと、必要なことを言わないことは違います。

子どもは、最初から正しい判断ができるわけではありません。
だからこそ、家庭があり、親がいて、先生がいて、大人がいます。

子どもが「嫌だ」と言ったときに、ただ引き下がるのではなく、
「なぜ嫌なのか」を聞き、
「それでも大切なことは何か」を考え、
「大人としてどう導くべきか」を判断する。

そこにこそ、教育と子育ての本質があるのではないでしょうか。

教育の機会が損なわれている現状

― 親の介入、世論への恐怖、そして子どもが失っているもの ―

今、子どもたちの「教育の機会」が、少しずつ損なわれているように感じます。

学校に行けているかどうか。
授業を受けているかどうか。
宿題をしているかどうか。

もちろん、それらも大切です。

けれど、本当に大切な教育の機会とは、もっと広いものではないでしょうか。

失敗すること。
叱られること。
我慢すること。
自分で考えること。
人とぶつかること。
思い通りにならない経験をすること。
そして、その中で少しずつ自分を整えていくこと。

これらもまた、子どもにとって大切な教育です。

しかし近年、その機会が大人によって先回りして奪われている場面が増えているように思います。

親が介入しすぎる。
子どもが困る前に助ける。
子どもが傷つく前に守る。
子どもが怒られる前に説明する。
子どもが失敗する前に道を整える。

一見すると、愛情深い関わりに見えます。

しかし、子どもが本来経験すべき「困る」「考える」「やり直す」「謝る」「乗り越える」という機会まで奪ってしまうとしたら、それは本当に子どものためなのでしょうか。

子どもは失敗の中で学びます。
叱られる中で境界を知ります。
我慢の中で心の筋力をつけます。
人との衝突の中で、自分以外の存在を知ります。

大人がすべてを取り除いてしまえば、子どもは安全に見えます。
けれど、その安全は本物の強さにはつながりません。


また、教育現場にも大きな変化があります。

先生や支援者が、子どものために必要な指導をしようとしても、世論や保護者の反応を恐れて踏み込めない。
「厳しすぎると言われるのではないか」
「問題にされるのではないか」
「誤解されるのではないか」

そんな不安が、教育の現場から本来必要な関わりを奪っているように感じます。

もちろん、体罰や人格否定は決して許されません。
子どもの尊厳を傷つける指導は、教育ではありません。

けれど、必要な注意や指導、ルールの提示まで避けてしまえば、子どもは社会の中で生きるための大切な力を身につけることができません。

「それはしてはいけない」
「今は我慢する時」
「人に迷惑をかけたら謝る」
「自分の気持ちだけでは通らないことがある」

こうした当たり前のことを、子どものうちに大人が伝えること。
それは、決して冷たい関わりではありません。

むしろ、子どもが将来困らないための、大人からの責任ある愛情です。

今の社会は、子どもの気持ちを大切にする方向へ進んできました。
それ自体は、とても大切なことです。

しかし、「子どもの気持ちを大切にすること」と、「子どもの言い分をすべて通すこと」は違います。

「子どもを守ること」と、「子どもから経験を奪うこと」も違います。

「寄り添うこと」と、「大人が責任を放棄すること」も違います。

教育とは、子どもにとって心地よいことだけを与えるものではありません。
時には耳の痛いことを伝える。
時には立ち止まらせる。
時には我慢を求める。
時には自分の行動を振り返らせる。

その積み重ねの中で、子どもは少しずつ社会の一員として育っていきます。

大人が恐れている間に、子どもは学ぶ機会を失っていきます。

親が先回りしすぎることで、子どもは自分で考える力を失う。
現場が世論を恐れすぎることで、子どもは必要な指導を受ける機会を失う。
社会が「厳しさ」をすべて悪と見なすことで、子どもは乗り越える経験を失う。

これは、子どもにとって本当に幸せなことでしょうか。

子どもを大切にするとは、ただ守ることではありません。
子どもを信じて、経験させること。
失敗しても立ち上がれるように、そばで見守ること。
必要な時には、大人が大人として伝えること。

教育の機会とは、机の上の勉強だけではありません。

生きる力を育てるすべての経験が、教育です。

だからこそ、私たち大人はもう一度考えなければなりません。

子どものためと言いながら、子どもから学ぶ機会を奪っていないか。
守っているつもりで、弱くしていないか。
優しさの名のもとに、大人としての責任から逃げていないか。

子どもは、転ばなければ起き上がり方を学べません。
迷わなければ、考える力は育ちません。
叱られなければ、境界を知ることはできません。
我慢しなければ、自分を律する力は身につきません。

教育とは、子どもを傷つけないように無風の場所に置くことではありません。
風の中でも立っていける力を育てることです。

そのために、親も、学校も、支援者も、社会も、もう一度「大人の役割」を取り戻す必要があるのではないでしょうか。

学びと思考のバランス

これからブログに記す事柄は、令和8年6月19日の朝礼での講義内容を、子育てに置きかえた内容になります。

私たち、子どもの成長に係ることを、「生業」としている人間には、
とても大切な講義内容でした。

だからこそ、今子育て中のお父さんお母さんにも伝えたいと思い、ブログで発信しています。

物事の本質にたどり着ける人間になりたいものですね。

学びて思わざれば則ち罔(くら)し。
思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。

これは孔子の『論語』にある有名な言葉です。

意味は、

「学ぶだけで自分で考えなければ、本当の理解には至らない。」
「反対に、自分勝手に考えるだけで学ばなければ、危険な考えに陥る。」

ということです。

2500年以上前の言葉ですが、現代の子育てにもそのまま当てはまるように感じます。

子育ての情報はあふれている

今は、本やSNS、動画などで、簡単に情報が手に入る時代です。

「褒めて育てましょう」
「自己肯定感を育てましょう」
「個性を大切にしましょう」

どれも良く見聞きする内容であり、言葉です。

しかし、その言葉を表面的に受け取ってしまうと、本来の意味から離れてしまうことがあります。

例えば、「褒めることが大切」という言葉を聞いて、何でも褒めればよい。

叱ってはいけない。嫌な思いをさせてはいけない。

と解釈してしまう。

学んでも考えなければ「くらし」

孔子は「学びて思わざれば則ち罔し」と言いました。

情報を集めるだけでは不十分です。
なぜそうするのか。
その目的は何か。
自分の子どもに当てはめるとどうなのか。

そこまで考えて初めて学びは生きてきます。

子育ての本を10冊読んでも、

その内容の本質は何かを考え、学ばなければ、言葉の量が増えても理解は深まりません。

考えるだけで学ばなければ「あやうし」

一方で、「私はこう思う」「うちの子は大丈夫」「昔からこうだから」
という経験や感覚だけで判断することも危険です。

だからこそ学ぶ必要があります。

法律を学ぶ。

教育を学ぶ。

発達を学ぶ。

先人の知恵を学ぶ。

学ぶことで、自分の思い込みや偏見に気づくことができます。

子育てで本当に大切なこと

教育基本法第10条には、

「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」

とあります。

責任とは、思いつきで育てることではありません。

学び続けること。

考え続けること。

そして必要に応じて自分を改めることです。

子どもは親の背中を見ています。

親が学ぶ姿勢を持てば、子どもも学ぶようになります。

親が考える姿勢を持てば、子どもも考えるようになります。

本質を見る目を育てる

現代は言葉が先行しやすい時代です。

「多様性」
「自己肯定感」
「個性」
「主体性」

大切な言葉ほど、本質を理解せずに使われがちです。

だからこそ孔子の言葉が響きます。

学びて思わざれば則ち罔し。
思いて学ばざれば則ち殆し。

子育てに迷ったとき、

まず学ぶ。そして考える。さらに学び直す。

その繰り返しの中に、本当の意味で子どもを育てる力が生まれるのではないでしょうか。

墨の香りと小さな挑戦

本日、児童発達支援の活動の中で、子どもたちと一緒に習字(書道)にチャレンジしました。

きっかけは、放課後等デイサービスを利用している子どもたちとの日々の関わりでした。

最近、「宿題がなかなか進まない」「書くのに時間がかかる」「学校の先生やお母さんが困っている」という話をよく耳にします。

学園で一緒に宿題に取り組むと、確かに書くスピードがゆっくり。
更に良く観察していると、ある共通点が見えてきました。

それは、「鉛筆の持ち方」です。

鉛筆を手の中に抱え込むように持つため、
・横線が書きにくい
・書いている文字が自分で見えにくい
・余計な力が入る
・手が疲れやすい
といった様子が見られます。

そこで、ふと思いました。
「もしかすると、筆を持つ経験が鉛筆の持ち方にも良い影響を与えるのではないだろうか?」

筆は鉛筆以上に姿勢や持ち方が大切です。
筆を立てる。
穂先を見る。
ゆっくり動かす。

そんな経験が、将来の「書く力」につながるかもしれません。

もちろん、すぐに文字が上手になる。早く書けるようになる。宿題が速く終わるわけではありません。

しかし、「文字を書くことへの抵抗感が減る」そんなきっかけになるかもしれない・・・。

そう考えて、今回の活動を企画しました。


初めて見る筆。

初めて触る半紙。

初めて見る真っ黒な墨。

子どもたちは目を輝かせながら先生の話を聞いていました。

「これなに?」
「黒いね!」
「さわっていい?」

興味津々です。

半紙の感触を確かめたり、墨の香りを感じたり、筆をそっと握ったり。

いつものクレヨンや鉛筆とは違う道具に、子どもたちは自然と集中していきました。

そして筆を持つと、一人ひとりが思い思いに線を描き始めます。

太い線。細い線。点。丸。勢いよく描く子。慎重に筆を運ぶ子。

どれも立派な作品です。


習字は文字を上手に書くためだけのものではありません。

筆を持つ。力を調整する。手先を使う。先生の話を聞く。順番を待つ。道具を大切に扱う。

実はたくさんの学びが詰まっています。

何より、「やってみよう!」という気持ちを育ててくれます。


子どもたちが描いた真っ黒な線を見ながら思いました。

未来のきれいな文字も、
速く書ける力も、

最初は一本の線から始まるのだと。

柏の葉学園では、これからも子どもたちの「できた!」につながる小さな挑戦を大切にしていきたいと思います。

君子は本を務む。本立ちて道生ず。

ふくろう先生のひとりごと

最近、子育てについて相談を受けていると、こんな言葉をよく耳にします。

「どう褒めたら自己肯定感が上がりますか?」

「集中力をつけるにはどうしたらいいですか?」

「発達を伸ばす方法を教えてください。」

どれもお母さんたちにとっては切実な質問です。。

しかし、私は時々こんなことを考えます。

その前に、もっと大切なことはないだろうか。

中国の古い書物『論語』にこんな言葉があります。

「君子は本を務む。本立ちて道生ず。」

読み方は「くんしは もとを つとむ。もと たちて みち しょうず。」

意味は「立派な人はまず根本を大切にする。
根本がしっかりすれば、進むべき道は自然と見えてくる。


木を育てる時を想像してみてください。

葉の色が悪い。

枝の伸び方が気になる。

実がならない。

そんな時、葉っぱを磨いたり、枝先ばかりを眺めたりしても木は元気になりません。

大切なのは根です。土です。水です。

見えない部分です。


子育ても同じです。

勉強の前に生活。

生活の前に親子関係。

親子関係の前に家庭の安心感。

これらが根っこの部分です。

根が弱ければ、どんなに立派な教育方法を試しても長続きしません。

逆に根がしっかりしていれば、多少回り道をしても子どもは育っていきます。


現代は情報があふれています。

自己肯定感。非認知能力。個性尊重。主体性。…

どれも大切な言葉です。

しかし、言葉だけを追いかけていると、本来見るべきものを見失うことがあります。

子どもはこれらの言葉で育つのではありません。

毎日の暮らしの中で育ちます。

家族との会話で育ちます。

「おはよう」

「いってらっしゃい」

「おかえり」

そんな何気ない積み重ねの中で育っていきます。


子育てに迷った時は、枝葉ではなく根っこを見てみてください。

勉強ができるか?運動が得意か?……それも大切ですが、

でも、その前に

安心して眠れているだろうか。

家族で笑えているだろうか。

挨拶ができているだろうか。

人を大切にできているだろうか。

そんな根っこの部分を見つめてみてください。


種は急いでも芽を出しません。

根を張る時間が必要です。

だから焦らなくて大丈夫。

まずは根を育てること。

そうすれば、いつか必ずその子らしい花が咲きます。

君子は本を務む。本立ちて道生ず。

子育てもまた、根本を大切にすることから始まるのだと思います。

ルールは「自然に身につく」のではなく、「気づき」によって身につく

昨日の朝礼での講義の一つ!

「ルールは自然と身につくものだ」と言われることがあります。

たしかに、日々の生活の中で何度も同じ場面を経験していると、いつの間にか行動の仕方がわかってくることがあります。学校、職場、家庭、地域社会の中で、人は周囲を見ながら「こうするものなのだ」と学んでいきます。

しかし、本当にルールは自然に身につくのでしょうか。

私は、そうではないと思います。

ルールは、ただ時間が過ぎれば身につくものではありません。


「自然」という言葉の意味

まず、「自然」という言葉には、いくつかの意味があります。

一般的には、山、川、海、空、草木、動物など、人の手が加わっていないものを指します。
たとえば「自然を大切にする」という時の自然です。

一方で、「自然に身につく」という場合の自然は、少し意味が違います。

この場合の自然とは、
「無理に意識しなくてもそうなること」
「特別に努力しているように見えず、いつの間にかそうなること」
という意味で使われています。

つまり、「ルールが自然に身につく」とは、「生活の中でいつの間にかルールを覚える」という意味になります。

けれども、ここに大切な落とし穴があります。

「自然に見えること」と「何も考えずに身につくこと」は、同じではありません。


ルールは気づきによって身につく

たとえば、廊下を走ってはいけないというルールがあります。

ただ「走ってはいけません」と言われただけでは、なぜ守る必要があるのか理解できないことがあります。
しかし、誰かとぶつかりそうになったり、小さな子が転びそうになったりする場面を見ると、人は気づきます。

「走ると危ないんだ」
「自分だけでなく、周りの人にも迷惑がかかるんだ」

この気づきがあるから、ルールはただの命令ではなく、自分の中の判断になります。

つまり、ルールを身につけるとは、言われたことを機械的に覚えることではありません。


気づきのないルールは、形だけになる

気づきがないまま守っているルールは、形だけになりやすいものです。

先生が見ているから守る。
上司に怒られるから守る。
周りに合わせるために守る。

もちろん、それも社会生活では必要な場面があります。
しかし、それだけでは本当の意味でルールが身についたとは言えません。

見ている人がいなくなった時、注意する人がいなくなった時、そのルールは簡単に崩れてしまいます。

一方で、気づきによって身についたルールは、自分の中に残ります。

「これは人を傷つけないために必要なんだ」
「これは安全を守るためにあるんだ」
「これはみんなが気持ちよく過ごすためのものなんだ」

そう理解できた時、ルールは外から押しつけられたものではなく、自分の考えとして行動に表れます。


大切なのは、ルールの理由に気づくこと

ルールを教える時に大切なのは、「守りなさい」と言うことだけではありません。

なぜそのルールがあるのか。
誰を守るためのものなのか。
守らなかった時に何が起こるのか。

そこに気づけるようにすることが大切です。

人は、意味がわからないものには納得しにくいものです。しかし、理由がわかると行動が変わります。

ルールは、人を縛るためだけにあるのではありません。
安全を守るため、人との関係を良くするため、社会をスムーズに動かすためにあります。

その意味に気づいた時、ルールは初めて自分のものになります。


まとめ

「ルールは自然に身につく」と言われることがあります。

しかし、正確には、ルールは自然に身につくのではありません。生活の中で経験し、考え、気づくことによって身についていきます。

自然に見える行動の裏側には、必ず小さな気づきがあります。

人に迷惑をかけた経験。
誰かに注意された経験。
危ない場面を見た経験。
相手の気持ちを考えた経験。

そうした一つひとつの気づきが、ルールを自分の中に根づかせていきます。

だからこそ、ルールを教える時には、ただ守らせるのではなく、気づかせることが大切です。

ルールは、自然に身につくものではありません。
ルールは、気づきによって身につくものなのです。

私たち柏の葉学園グループ職員は【朝礼】と言う名の毎朝1時間の勉強会を行っています!
そして私たち柏の葉学園グループは星槎国際高等学校柏キャンパスの附属施設でもあります。
教員免許を所持しているスタッフも沢山所属しています。

と言うことで・・・(⇓こんな確認も行います!)
■教育基本法から見る教員
教育基本法第6条第1項
法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。

我々も「昨日よりも今日、今日よりも明日」日々勉強です!