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覗いてみましょう!支援後の支援室を(°▽°)

子どもたちが元気に通える夏のために

夏は、子どもたちにとって楽しみの多い季節です。

水遊び、夏祭り、食育、外出活動。
いつもとは少し違う経験に、子どもたちの目も輝きます。

しかし、楽しい夏である一方、感染症や熱中症、脱水症状など、健康面での危険が高まる季節でもあります。

柏の葉学園では、子どもたちを安全に受け入れるため、職員会議の中で感染症対策委員会を開催し、夏の体調管理について改めて学び、確認を行いました。

保護者の皆様には、普段なかなか見えない、先生たちの「支援の裏側」を少し知っていただけたらと思います。


夏の三大感染症を学ぶ

夏に流行しやすい感染症として、

  • 手足口病
  • ヘルパンギーナ
  • 咽頭結膜熱(プール熱)

が挙げられます。

先生たちは、病名を知るだけではありません。

どのような症状が表れるのか。
普段と違う様子はないか。
顔色はどうか。
食欲はあるか。
発言や行動に変化はないか。

子どもたちの小さな変化を見逃さないため、一つひとつ確認しています。

手洗いや生活リズムなど、当たり前に思えることも、感染症対策の基本です。

当たり前のことを、当たり前に、丁寧に続ける。

それも、子どもたちの健康を守る大切な支援です。


塩分タブレットは、ただ配ればよいわけではありません

夏の活動では、必要に応じて塩分タブレットを使用しています。

しかし、塩分タブレットは、ただ食べればよいものではありません。

必ず水分と一緒に摂取すること。
汗をかいた量や活動内容を確認すること。
児童の体調を見ながら使用すること。
誤飲や過剰摂取がないよう管理すること。

先生たちは、子どもたちにタブレットを渡して終わりではありません。

きちんと水分を飲んだか。
体調に変化はないか。
汗のかき方はどうか。

その後の様子まで確認しています。


ミスト一つにも、配慮があります

暑い日の外出活動では、身体を冷やすためにミストを使用することがあります。

けれども、子どもたちの中には、水が顔にかかることが苦手な子、服が濡れることを不快に感じる子、突然の刺激に驚いてしまう子もいます。

そのため、

「今からお水をかけるよ」

と、必ず事前に声をかけます。

顔や目にかからないようにする。
首元や脇の下など、身体を冷やしやすい場所を意識する。
衣服が濡れすぎないようにする。
歩行中の飛び出しや転倒につながらないタイミングを選ぶ。

一見、簡単に見えるミストの使用にも、多くの観察と配慮があります。

全員に同じことをするのではなく、一人ひとりに合わせて方法を変える。

それが、柏の葉学園の支援です。


観察は、受け入れから引き渡しまで続きます

先生たちの観察は、学園に到着してから始まるわけではありません。

自宅や学校へのお迎えの時から、すでに始まっています。

車に乗った時の表情。
送迎車内での様子。
学園に着いた時の動き。
活動中の顔色や発汗。
食事やおやつの食べ方。
水分摂取の状況。
帰りの車内での様子。
そして、保護者の方へ引き渡す最後の瞬間まで。

「いつもより静かだな」

「今日はあまり遊ばないな」

「疲れたと言うことが増えたな」

「食欲が少ないな」

その小さな違和感を、先生同士で共有します。

一人の先生だけで判断せず、複数の目で子どもを見守る。

それは、柏の葉学園の大きな強みです。


子どもたちが100%で支援を受けるために

子どもたちは、体調が整っていてこそ、学び、遊び、人と関わることができます。

眠れていない。
朝食を食べていない。
水分が足りていない。
生活リズムが乱れている。

そのような状態では、集中できない、イライラする、活動に参加できないなど、さまざまな影響が出ます。

そのため、夏休み中は特に、

「朝ごはんは食べた?」

「昨日はよく眠れた?」

「今日は元気?」

と、子どもたちに確認します。

ただ預かるのではありません。

その日の体調を知り、安全に支援を提供するために、先生たちは一人ひとりの生活にも目を向けています。


先生たちも、学び続けています

子どもたちが登園する前。
子どもたちが帰った後。
職員会議や委員会の時間。

先生たちは、事故を防ぐために学び、感染症について調べ、熱中症への対応を確認し、支援方法を話し合っています。

「この対応で本当に安全か」

「もっと良い方法はないか」

「この子には、どのような配慮が必要か」

日々、考え続けています。

子どもたちが笑って過ごしている、その穏やかな一日の後ろには、先生たちの準備と努力があります。

何も起こらなかった一日は、何もしなかった一日ではありません。

事故が起きないように準備し、感染症を広げないように注意し、熱中症にならないように観察した結果です。


お休みについて、保護者の皆様にお願いしたいこと

もちろん、発熱や体調不良がある時には、無理をせず休養することが最優先です。

感染症が疑われる場合には、周囲への感染を防ぐためにも、お休みが必要です。

しかし一方で、

「今日は少し面倒そうだから」

「本人が行きたくないと言ったから」

「家庭の都合で何となく」

という理由で、安易にお休みを重ねることについては、今一度考えていただきたいと思います。

支援は、一日だけで完成するものではありません。

毎日の積み重ねの中で、

人と関わる力、
約束を守る力、
苦手なことに挑戦する力、
気持ちを切り替える力、
自分のことを自分でする力、

が少しずつ育っていきます。

先生たちは、その日の子どもたちを迎えるために、活動を考え、職員を配置し、安全確認を行い、教材や環境を準備しています。

子どもが来ることを前提に、準備をしています。

だからこそ、体調不良ではない時には、できる限り登園を続けてほしいと思います。

行きたくない日があることも、気分が乗らない日があることも分かります。

しかし、そこで簡単に休むのではなく、

「今日は行くだけ行ってみよう」

「先生に会ってから考えよう」

「まず車に乗ってみよう」

と、一歩を踏み出す経験も、子どもの成長には必要です。


家庭と学園が同じ方向を向くこと

学園だけが頑張っても、家庭だけが頑張っても、子どもの成長を十分に支えることはできません。

家庭と学園が同じ方向を向いた時、子どもの成長は大きくなります。

先生たちは、見えないところで学び、準備し、子どもたちを迎えています。

保護者の皆様にも、生活リズムを整えること、朝食や睡眠を確保すること、必要な持ち物を準備すること、そして安易に休ませないことに、ご協力いただきたいと思います。

子どもたちが100%の状態で支援を受けられるように。

子どもたちの今日と、その先の未来のために。

先生たちと保護者の皆様が手を取り合い、今年の夏も安全に、元気に、そして楽しく乗り越えていきましょう。

業務改善委員会 報告

令和8年7月21日 合同職員会議
(柏の葉学園・柏の葉学園十余二校・柏の葉学園豊四季第二教室)

本日の業務改善委員会では、石川県小松市の特別支援学校において、授業中にトイレへ向かった児童が行方不明となり、その後、近隣の滝で死亡が確認された大変痛ましい事故について、事例をもとに検証を行いました。

この事故は決して特別な環境で起きたものではありません。

「柏の葉学園で同じような事故を絶対に起こさないためには何が必要か。」

その視点で、全職員が真剣に話し合い、安全管理体制を改めて確認しました。

柏の葉学園 徹底事項

今回の委員会では、次の事項を全教室共通の安全管理として徹底することを確認しました。

  • 児童を一人にしないことを原則とします。
    トイレや施設内外への移動時も、職員が付き添い、安全を最優先に支援します。
  • 公園支援中は、児童を常に職員の視界に入れます。
    自由遊びであっても、「見えていること」を基本とし、死角をつくらない支援を徹底します。
  • 子どもたちを「いい意味で信用しない」ことを共通認識とします。
    子どもたちを疑うという意味ではありません。
    「この子は大丈夫」「いつもできているから」という思い込みを持たず、一人ひとりの行動を最後まで見守る姿勢を大切にします。
  • 自由遊び終了前には、職員間で必ず安全確認を行います。
    公園など屋外活動では、解散や集合をかける前に、職員同士で現地の安全確認と児童全員の所在を確認し、人数確認を徹底します。
  • 職員同士の情報共有を徹底します。
    「誰がどの児童を見ているのか」「どこにいるのか」を常に共有し、支援の空白をつくらない体制を維持します。
  • 事故発生時を想定した初動対応を定期的に確認します。
    万が一に備え、捜索手順や連絡体制、役割分担を繰り返し確認し、迅速な対応ができるよう備えます。

柏の葉学園の強み

柏の葉学園の大きな強みの一つは、「先生の目が多いこと」です。

屋外活動では、単に子どもたちを囲むのではなく、活動の列や遊びの間にも職員が入りながら配置し、

「目が届く・手が届く・気が届く」

この三つが届く範囲で支援を行っています。

職員同士がお互いの位置を確認しながら配置することで、死角を減らし、子どもたち一人ひとりの安全を守る体制を日頃から実践しています。

おわりに

子どもたちの命を守ることは、私たち支援者に課せられた最も重要な責務です。

事故は、「少しだけ目を離した」「この子なら大丈夫だと思った」という、一瞬の判断から起こることがあります。

だからこそ柏の葉学園では、「安全にやり過ぎはない」という意識を全職員で共有し、一つひとつの支援を丁寧に積み重ねています。

今回の事例を重く受け止め、今後も安全管理体制を継続的に見直しながら、保護者の皆様に安心してお子様をお預けいただける学園であり続けられるよう、職員一同努めてまいります。

「自己肯定感」とは何でしょう。

最近よく耳にする「自己肯定感を高めましょう」という言葉。

「自己肯定感」とはどういうことなのか?改めて整理してみました!

自己肯定感とは「自分は何をしても正しい」「好き勝手に生きていい」という意味ではありません。

本来の自己肯定感とは、

「できる自分も、できない自分も含めて、自分という存在には価値があると認められること」

です。

成績が良いから価値がある。
仕事ができるから価値がある。
誰かに褒められたから価値がある。

そうではなく、

失敗しても、
叱られても、
思うようにいかない日があっても、

「それでも私は私でいい。」

そう思える心の土台のことです。

だからこそ、自己肯定感が高い人ほど失敗を恐れず、新しいことへ挑戦できます。
また、自分を大切にできる人は、自然と他人のことも大切にできるようになります。


では、自己肯定感と公序良俗はどちらを優先するのでしょうか。

結論から言えば、

まず守るべきは「公序良俗」でしょう!

公序良俗とは、
社会が安心して暮らしていくための最低限の約束事です。

法律を守ること。
人を傷つけないこと。
他人の権利を侵害しないこと。

これらは、誰もが安心して生活するための土台になります。

一方、自己肯定感は、

その土台の上で、自分を大切にする心

です。

もし、

「これが自分らしさだから。」
「自己肯定感を大切にしたいから。」

という理由で、人を傷つけたり、社会のルールを壊したりするのであれば、それは自己肯定感ではありません。

それは単なる自己中心性です。


子どもたちにも伝えたいこと

柏の葉学園でも、子どもたちへよく伝えています。

「やりたいこと」と
「やっていいこと」は違う。

腹が立つこともあります。

悔しいこともあります。

嫌になる日もあります。

その気持ちを持つことは悪いことではありません。

でも、その気持ちのまま友達を叩いたり、暴言を吐いたりすれば、相手は傷つきます。

だから、

気持ちは大切にする。行動には責任を持つ。

これが社会で生きていくための大切な力です。


本当の自己肯定感とは

自己肯定感は、「私は何をしても許される」

という考えではありません。

むしろ、

自分を大切にできる人ほど、相手も大切にできます。

自分の価値を知っている人は、
他人の価値も知っています。

だからこそ、ルールを守ることも、人への思いやりも、自分を粗末にしないことも、すべて一つにつながっているのです。

「教育」の原点は、法律の中に書かれています!

柏の葉学園では、日々さまざまな活動を行っています。

公園で思い切り遊ぶこと。野菜を育てること。卵の殻を砕いて肥料を作ること。友達と笑い合い、ときにはぶつかり合うこと。

こうした活動を見て、「遊んでいるだけでは?」そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。

そうです!子どもたちにとって遊びはとても大切です!!
そして、私たちにはそう考える一つの根拠があります。

それが学校教育法第23条です。


学校教育法 第23条(幼稚園の目標)

幼稚園における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 健康、安全で幸福な生活のために必要な基本的な習慣を養い、身体諸機能の調和的発達を図ること。

二 集団生活を通じて、喜んでこれに参加する態度を養うとともに、家族や身近な人への信頼感を深め、自主、自律及び協同の精神並びに規範意識の芽生えを養うこと。

三 身近な社会生活、生命及び自然に対する興味を養い、それらに対する正しい理解と態度及び思考力の芽生えを養うこと。

四 日常の会話や、絵本、童話等に親しむことを通じて、言葉の使い方を正しく導くとともに、相手の話を理解しようとする態度を養うこと。

五 音楽、身体による表現、造形等に親しむことを通じて、豊かな感性と表現する力の芽生えを養うこと。


私は、この条文を読むたびに思います。

ここには、「字を書けるようになりましょう。」「計算ができるようになりましょう。」とは、一言も書かれていません。

法律が最初に大切だと示しているのは、

健康な身体。
安心できる人との関係。
仲間と生活する力。
自然への感動。
言葉を通して心を伝え合うこと。
そして、自分を表現する喜び。等々

これらは「遊び」の中で経験し学ぶことができます。

だから柏の葉学園では、
野菜を育てます。
卵の殻を肥料にします。
泥だらけになって遊びます。
虫を見つけて歓声を上げます。
友達とけんかをし、仲直りをします。

これこそが法律が目標として掲げる教育そのものだからです。

支援とは、できないことをできるようにすることではない!
のではないでしょうか?

その子が本来持っている

を信じ、

その力が十分に発揮できる環境を整えることだと

考えています。


私たちは、子どもに何かを与えているのではありません。

子どもが自ら育つためのを耕しているのです。

花は、無理に咲かせることはできません。

種には種の時期があり、芽には芽の時期があります。

大切なのは、花を引っ張ることではなく、根が伸びる環境を整えること。


学校教育法第23条は、幼稚園の目標を定めた条文です。

しかし私は、この条文は幼児教育だけでなく、

でもあるように感じています。

結果を急ぐのではなく、土台を育てる。

教え込むのではなく、育つ力を信じる。

柏の葉学園は、これからも法律が示す教育の原点を大切にしながら、

子どもたち一人ひとりの

「育つ力」を信じ、

その歩みに寄り添ってまいりたいと思います。

「観察」について色々考えてみました

子どもたちの成長に係る仕事をしている私たちは

「観察」

とても大切なことだと考えています。

子どもたちの些細な行動や発言、顔色、服装・・・そこから子どもたちの状況を読み取ることができます。

「観察」とはどういうことなのか改めて考え、探求してみました。

1. 「観」の成り立ちと意味

「観」は旧字体で と書きます。

字源的には、左側の と、右側の から成る字です。「見」は目で見ることに関わる字で、「観」は「よく見る」「注意して見る」「物事の様子を見る」といった意味を持ちます。漢字辞典では、「観」は「みる/よく見る/注意して見る/様子/姿/外見」などの意味を持つ字と説明されています。(漢字辞典オンライン)

ここで大切なのは、「観」はただ視界に入れるだけの「見る」ではなく、距離を取り、全体を眺め、意味を読み取ろうとする見るに近いことです。

たとえば、

「見る」は、目に入る。
「観る」は、心を向けて見る。
「観」は、対象の姿だけでなく、あり方・流れ・本質まで見ようとする。

そのため「観」には、外側から眺めるだけでなく、物事の全体像をとらえる視線が含まれています。

2. 「察」の成り立ちと意味

「察」は、 から成る字とされます。漢検系の辞典では、「宀」と音符の「祭」から成り、「おおわれているものを取って明らかにする意」を表すと説明されています。(漢字辞典)

「察」には、「明らかにする」「知る」「詳しく見る」「よく考える」「推測する」「思いやる」といった意味があります。(OK辞典)

つまり「察」は、目に見えるものだけで終わらず、見えにくいものを感じ取り、推し量り、理解しようとする働きです。

たとえば、

表情を見て、気持ちを察する。
状況を見て、事情を察する。
小さな変化から、原因を察する。

「察」は、見えないものを勝手に決めつけることではありません。見えている手がかりから、慎重に奥を探ることです。

3. 「観察」とは何か

「観」と「察」を合わせると、観察とは、

対象をよく見て、そこに現れている状態や変化をとらえ、さらに見えにくい原因・意味・関係を明らかにしようとする営み

だと言えます。

国語辞典でも「観察」は、「物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること」と説明されています。また仏教語としては、「智慧によって対象を正しく見極めること」という意味もあります。(コトバンク)

ここから考えると、観察には二つの方向があります。

一つは、外に向かう観察です。自然、社会、人間、物事の動きをよく見ることです。

もう一つは、内に向かう観察です。自分の感情、思考、先入観、反応をよく見ることです。

4. 科学としての観察

科学における観察は、主観をできるだけ抑え、対象の状態や変化を丁寧に記録することです。

たとえば植物を観察するとき、「元気そう」とだけ書くのでは不十分です。

葉の色はどうか。
茎の長さは何センチか。
昨日と比べて何が変わったか。
日光、水、温度との関係はどうか。

科学的な観察では、印象ではなく、事実・変化・条件・比較が大切になります。

ただし、科学的観察も完全に中立ではありません。何を見るか、どこに注目するかは、観察者の問いによって変わります。つまり観察とは、ただ受け身で見ることではなく、問いを持って見ることでもあります。

5. 人間関係としての観察

相手の言葉だけでなく、沈黙、表情、声の調子、間の取り方、態度の変化を見る。そこから「何を感じているのか」「何に困っているのか」を察する。

ここでは「観」だけでは足りません。外側の様子を見るだけなら、相手を表面的に判断してしまうことがあります。そこに「察」が加わることで、相手の立場や背景を思いやる理解になります。

ただし、察しすぎにも注意が必要です。

「きっとこう思っているに違いない」と決めつけると、それは観察ではなく思い込みになります。人間関係における観察は、相手をよく見ることと、断定しすぎないことの両方が必要です。

6. 自己理解としての観察

観察は外の世界だけでなく、自分自身にも向けられます。

なぜ今、腹が立ったのか。
なぜこの言葉に傷ついたのか。
なぜ同じ失敗を繰り返すのか。
なぜこの人の前では緊張するのか。

自分を観察するとは、自分を責めることではありません。自分の心の動きを、少し距離を置いて見ることです。

この意味で観察は、自己成長の出発点になります。なぜなら、人は自分が気づいていない癖を変えることは難しいからです。まず気づく。次に理解する。そして少しずつ選び直す。観察はその最初にあります。

7. 哲学的に見る「観察」

哲学的に考えると、観察は「世界をそのまま見ること」であると同時に、「自分の見方を通して世界を見ること」でもあります。

同じ景色を見ても、人によって感じることは違います。

農家は土や天気を見る。
画家は光や色を見る。
医師は顔色や姿勢を見る。
子どもは遊び場を見る。
旅人は珍しさを見る。

つまり、観察には必ず「視点」があります。

だからこそ、本当に深い観察には、二つの姿勢が必要です。

一つは、対象を丁寧に見ること。
もう一つは、自分の見方が偏っていないかを疑うこと。

観察とは、世界を見る行為であると同時に、自分のまなざしを問い直す行為でもあります。

8. 「観察」と「観測」「監視」「考察」の違い

「観察」は、対象を注意深く見て、状態や変化を理解しようとすることです。

「観測」は、より数値的・測定的です。天気、地震、天体などを測るときによく使います。

「監視」は、異常や違反がないかを見張る意味が強くなります。対象との関係に緊張があります。

「考察」は、観察したことをもとに考え、意味や原因を深めることです。

つまり、

観察は、よく見る。
観測は、測って見る。
監視は、見張る。
考察は、見たことを考える。

この中で「観察」は、見ることと考えることの中間にあります。見て終わりではなく、考察へ向かう入口です。


「観察」とは、目で見るだけの行為ではありません。

は、全体をよく見ること。
は、見えにくいものを明らかにしようとすること。

したがって観察とは、

目に見える事実を丁寧にとらえ、そこから見えない関係・変化・意味を慎重に理解しようとすること

です。

さらに言えば、観察とは「対象を知る技術」であり、「思い込みを減らす訓練」であり、「世界と自分へのまなざしを深める態度」でもあります。

よく観る人は、すぐに決めつけません。
よく察する人は、見えないものを乱暴に断定しません。
本当の観察とは、注意深さと謙虚さをもって、物事に近づくことだと思います。

勉強とは何か?を考えてみました。

「勉強」という言葉は、「勉めを強いる」と書きます。

「勉める」とは、無理をしてでも力を尽くすこと、困難に負けず努力することです。
「勉」には、精を出して励むこと、また当然やらなければならない物事、義務という意味があります。

一方で、「強いる」とは、他人の意思を無視して無理に押し付けること、無理に行わせること、強制することを意味します。

この言葉だけを見ると、「勉強」とは少し厳しいものに感じられるかもしれません。
しかし、人が集団で生きていくうえで、「勉めを強いる」という行為は、とても大切なものだったのではないでしょうか。

例えば、狩猟の時代を考えてみます。
何も知らない若者が狩猟についていったとしても、知識や技術がなければ獲物を捕ることはできません。獲物が捕れなければ、自分だけでなく、家族や集団全体が困ることになります。場合によっては、生命に関わる問題にもなります。

だからこそ、昨日失敗したことを反省し、先輩から教わり、技術を覚え、次は少しでもできるようになろうとする。
この行為こそが、「勉めを強いる」ということではないかと思います。

つまり勉強とは、現在で言う単に机に向かって教科書を読むこと、書くこと・・・の前に
昨日より今日の自分が少しでも成長できるように、自分に負荷をかけて学ぶこと事態の行為です。

成長するということは、自分にある程度のストレスを与えることでもあります。
変化にはストレスが伴います。今までできなかったことに挑戦するからこそ、苦しさや面倒くささを感じるのです。しかし、そのストレスを乗り越えた先に成長があります。

このように考えると、「勉めを強いる」という行為があり、その行為が現在の「勉強」につながっていると解釈できます。

そう考えると、勉強は「したい」「したくない」、「好き」「嫌い」、「楽しい」「楽しくない」と判断するものではありません。
まず、人が生きていくために、勉めを強いる行為が必要なのです。

もし自分に必要な努力をすることができなければ、周りに迷惑をかけてしまうことがあります。集団の中で役割を果たせず、場合によっては邪魔者扱いされてしまうかもしれません。そうならないためにも、人は生まれてから成長していく過程で、勉めを強いることを学んでいく必要があります。

では、「勉強が楽しい」とはどういうことでしょうか。

それは、どうせ勉めを強いる必要があるのなら、そのやり方を工夫して楽しめるようにすることだと思います。
例えば、ゲーム性を持たせる。友達と協力する。目標を小さく分ける。できたことを認め合う。そうした工夫によって、勉強はただ苦しいものではなく、前向きに取り組めるものになります。

さらに考えると、日本の法律には、子どもには教育を受ける権利があり、保護者には教育を受けさせる義務があります。また、義務教育という制度もあります。
つまり、少なくとも義務教育の期間においては、子どもが学び、成長するために「勉めを強いる」ことは社会全体の前提になっているとも言えます。

現在の子どもたち、「勉強をやりたい」「やりたくない」と言うことがあります。
勉強は本人の気分で決めるものではありません。
人が社会の中で生きていくために、必要な力を身につける行為です。

だから私たち大人が考えるべきことは、子どもにただ「勉強しなさい」と言うことではありません。
そもそも「勉強」とは何なのか?なぜ学ぶ必要があるのか?を伝え、努力することの意味を教え、そして勉めを強いる過程を少しでも前向きにできるよう支えることではないでしょうか。

勉強とは、自分を成長させるために必要な負荷を受け入れること。
そして、昨日より今日の自分を少しでも良くしていくための営みなのだと思います。

「嫌だからやらない」で終わらせない大人の関り

子どもの「やりたくない」を、そのまま優先してよいのか

「子どもが行きたくないと言うから」
「子どもがやりたくないと言うから」
「子どもが辞めたいと言うから」

習い事、スポーツ、勉強、学校行事、家庭での役割。
子どもが嫌がったとき、大人はその言葉をどう受け止めるべきでしょうか。

もちろん、子どもの気持ちを無視してよいという話ではありません。
子どもにも感情があり、不満や不安、苦しさを感じることがあります。

ただし、それらの感情の多くは、決して特別なものではありません。

「面倒くさい」
「行きたくない」
「うまくできないから嫌だ」
「注意されるのが嫌だ」
「少ししんどい」

こうした気持ちは、誰もが成長の過程で経験するものです。

子どもはまだ経験が少ないため、目の前のつらさを大きく感じてしまいます。
今の不快感、今の面倒くささ、今の不満が、本人の中では最優先になってしまうのです。

しかし、大人から見れば、それは人生において避けて通れない小さな壁であることも多いはずです。

大した苦労ではない。
誰もが経験すること。
そういう時もある。
それでも、やるべきことはやる。
嫌でも乗り越えなければならない場面がある。

本来、大人が子どもに教えるべきなのは、まさにそこではないでしょうか。

子どもの希望が、そのまま叶ってしまう時代

最近、子どもが「やりたくない」と言うと、その希望がそのまま叶ってしまう場面が増えているように感じます。

「子どもが行きたくないと言うから、行かせません」
「子どもがやりたくないと言うから、やらせません」
「子どもが辞めたいと言うから、辞めさせます」

もちろん、本当に限界を迎えている子どもを無理に続けさせるべきではありません。
心や体に大きな負担があるなら、休ませることも、環境を変えることも必要です。

しかし、すべてがそうとは限りません。

少し面倒だから。
少し怒られたから。
少しうまくいかなかったから。
少し友だちと合わなかったから。
少し疲れたから。

そうした理由であっても、子どもの「嫌だ」という言葉が最優先されてしまう。

けれど、本当にそれでよいのでしょうか。

お父さんお母さんに聞くと、こう返ってくることがあります。

「私たちは行った方がよいと思っている」
「私たちはやった方がよいと思っている」
「私たちは続けた方がよいと思っている」

そう思っているにもかかわらず、子どもが嫌がるからやめさせる。
大人として本当は必要だと思っていることを、子どもに伝えきれない。
子どもに嫌われたくない。
泣かせたくない。
強く言うのがかわいそう。
親子関係が悪くなるのが怖い。

その気持ちは分かります。

しかし、大人が「この子のためになる」と思っていることを言えないまま、子どもの希望だけを通してしまうのは、本当に子どものためになっているのでしょうか。

子どもはまだ、正しく判断する材料を持っていない

子どもは成長の途中です。

物事の分別がまだ十分についていない年齢があります。
良し悪しを自分だけで判断するには、経験が足りない段階があります。
今は嫌でも、続けた先に得られるものがあります。
今は面倒でも、後になって「あの時やっておいてよかった」と分かることがあります。

しかし子どもは、まだその先を十分に想像できません。

子どもにとっては、今のつらさがすべてです。
今の面倒くささがすべてです。
今の不満がすべてです。

だからこそ、目の前の嫌なことから逃げたいと思う。
楽な方を選びたいと思う。
やめたい、行きたくない、やりたくないと言う。

これは子どもとして自然な反応です。

だからといって、その判断をすべて正しいものとして扱ってよいのでしょうか。

もし子どもがすべて自分で正しく判断できるのであれば、教育も子育ても必要ありません。
けれど実際には、子どもにはまだ見えていない世界があります。
経験した大人だからこそ分かることがあります。

その大人が何も言わず、何も導かず、ただ「本人が嫌だと言っているから」と引き下がってしまう。
それは、子どもの意思を尊重しているように見えて、実は子どもに判断を丸投げしているだけではないでしょうか。

「嫌だからやらない」で終わらせてよいのか

子どもが「嫌だ」と言ったとき、大人が教えるべきことがあります。

それは、世の中には「嫌でもやるべき時がある」ということです。

「嫌だからやらない」ではなく、
「嫌でもやるべき時がある」
「少しつらくても続けることで力がつく」
「不満があっても、すぐに逃げない」
「思い通りにならないことを乗り越える」

こうしたことを、子どもは経験の中で学んでいきます。

我慢する力。
続ける力。
踏ん張る力。
気持ちを切り替える力。
うまくいかなくても、もう一度やってみる力。

これらは、楽しいことだけをしていて身につくものではありません。
嫌なこと、面倒なこと、少しつらいことを乗り越える中で育っていくものです。

子どもの「つらい」「嫌だ」という気持ちだけを優先してしまえば、子どもは乗り越える経験を失ってしまいます。
そして、少し嫌なことがあるたびに逃げることを覚えてしまうかもしれません。

もちろん、本当に追い詰められている子どもに「我慢しなさい」と言い続けるのは違います。
しかし、何でもかんでも「嫌ならやめていい」にしてしまうことも、子どもの成長を奪ってしまいます。

限界なのか。
甘えなのか。
一時的な感情なのか。
環境に問題があるのか。
乗り越えるべき壁なのか。
本当にやめるべき状況なのか。

ここを判断するのは、やはり大人の役割です。

「尊重」と「放任」は違う

子どもの意見を聞くことは大切です。
しかし、子どもの意見をそのまま最終決定にすることとは違います。

「嫌なんだね」
「つらいんだね」
「どうしてそう思うの?」
「何が一番しんどいの?」

まずは聴く。
これは必要です。

けれど、聞いたあとに大人が何も言わないのなら、それは教育ではありません。

「そう感じるのは分かる」
「でも、それを乗り越えることも大切だよ」
「お父さんお母さんは、ここまでは頑張ってほしいと思っている」
「なぜなら、これはあなたの力になると思うから」

このように、大人の考えを伝えることが必要です。

子どもの気持ちを受け止めることは大切です。
しかし、ただ共感するだけで終わってはいけません。

一方で、放任とは、子どもに任せているようで、実は大人が責任を引き受けていない状態です。

「本人がそう言っているから」
「子どもが決めたことだから」
「嫌がっているから仕方ない」

この言葉で、大人が判断する責任から逃げてしまっていないでしょうか。

自由を与えることが、必ずしも優しさとは限らない

「子どもの自由を大切にしたい」
「本人の意思を尊重したい」

この考え方自体は大切です。

しかし、まだ判断力が十分に育っていない子どもに、すべての選択を委ねることは、時に酷なことでもあります。

何も備わっていない子どもに判断を委ねる。
経験の少ない子どもに自由だけを与える。
その結果、子どもは目先の楽な方を選んでしまう。

これは本当に優しさなのでしょうか。

子どもは自由を与えられると、どうしても今の快・不快で判断しやすくなります。
長い目で見た成長よりも、今の気分を優先しやすい。
将来のためになることよりも、今楽なことを選びやすい。

それは子どもが悪いのではありません。
発達の途中だから当然なのです。

だからこそ、大人が必要です。

「今は嫌でも、これは大事なことだよ」
「もう少し続けてみよう」
「途中で投げ出さず、ここまではやってみよう」
「あなたの気持ちは分かる。でも、これは必要な経験だと思う」

こうした言葉をかけることは、押しつけではありません。
子どもを善い方向へ導くための、大人の責任です。

教育とは、子どもを善い方向へ導くこと

本来、教育や子育てとは、子どもがまだ知らないことを教えることです。
善いことと悪いことを伝えることです。
我慢する力、続ける力、努力する力、礼儀、責任感を育てることです。

つまり、子どもを善い方向へ導くこと。
「善導」することです。

大人が一方的に支配することではありません。
親の理想を押しつけることでもありません。
子どもの心を無視して、無理やり従わせることでもありません。

しかし、大人が本当に「この子のためになる」と思うなら、それを言葉にして伝える責任があります。

「あなたが嫌だと言っていることは分かる」
「でも、お父さんお母さんは、これは続けた方がいいと思っている」
「なぜなら、こういう力が身につくから」
「ここまでは頑張ってみよう」
「それでも本当に無理なら、もう一度一緒に考えよう」

このように、子どもの気持ちを受け止めながらも、大人の考えをしっかり伝える。
これが子育てではないでしょうか。

大人が大人であることをやめてはいけない

子どもの声を聴くこと。
子どもの気持ちを大切にすること。
それは、今の子育てにおいてとても重要です。

しかし同時に、大人が大人として立つことも必要です。

子どもに寄り添うことと、子どもの言いなりになることは違います。
子どもの意思を尊重することと、子どもに判断を丸投げすることは違います。
優しくすることと、必要なことを言わないことは違います。

子どもは、最初から正しい判断ができるわけではありません。
だからこそ、家庭があり、親がいて、先生がいて、大人がいます。

子どもが「嫌だ」と言ったときに、ただ引き下がるのではなく、
「なぜ嫌なのか」を聞き、
「それでも大切なことは何か」を考え、
「大人としてどう導くべきか」を判断する。

そこにこそ、教育と子育ての本質があるのではないでしょうか。

学びと思考のバランス

これからブログに記す事柄は、令和8年6月19日の朝礼での講義内容を、子育てに置きかえた内容になります。

私たち、子どもの成長に係ることを、「生業」としている人間には、
とても大切な講義内容でした。

だからこそ、今子育て中のお父さんお母さんにも伝えたいと思い、ブログで発信しています。

物事の本質にたどり着ける人間になりたいものですね。

学びて思わざれば則ち罔(くら)し。
思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。

これは孔子の『論語』にある有名な言葉です。

意味は、

「学ぶだけで自分で考えなければ、本当の理解には至らない。」
「反対に、自分勝手に考えるだけで学ばなければ、危険な考えに陥る。」

ということです。

2500年以上前の言葉ですが、現代の子育てにもそのまま当てはまるように感じます。

子育ての情報はあふれている

今は、本やSNS、動画などで、簡単に情報が手に入る時代です。

「褒めて育てましょう」
「自己肯定感を育てましょう」
「個性を大切にしましょう」

どれも良く見聞きする内容であり、言葉です。

しかし、その言葉を表面的に受け取ってしまうと、本来の意味から離れてしまうことがあります。

例えば、「褒めることが大切」という言葉を聞いて、何でも褒めればよい。

叱ってはいけない。嫌な思いをさせてはいけない。

と解釈してしまう。

学んでも考えなければ「くらし」

孔子は「学びて思わざれば則ち罔し」と言いました。

情報を集めるだけでは不十分です。
なぜそうするのか。
その目的は何か。
自分の子どもに当てはめるとどうなのか。

そこまで考えて初めて学びは生きてきます。

子育ての本を10冊読んでも、

その内容の本質は何かを考え、学ばなければ、言葉の量が増えても理解は深まりません。

考えるだけで学ばなければ「あやうし」

一方で、「私はこう思う」「うちの子は大丈夫」「昔からこうだから」
という経験や感覚だけで判断することも危険です。

だからこそ学ぶ必要があります。

法律を学ぶ。

教育を学ぶ。

発達を学ぶ。

先人の知恵を学ぶ。

学ぶことで、自分の思い込みや偏見に気づくことができます。

子育てで本当に大切なこと

教育基本法第10条には、

「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」

とあります。

責任とは、思いつきで育てることではありません。

学び続けること。

考え続けること。

そして必要に応じて自分を改めることです。

子どもは親の背中を見ています。

親が学ぶ姿勢を持てば、子どもも学ぶようになります。

親が考える姿勢を持てば、子どもも考えるようになります。

本質を見る目を育てる

現代は言葉が先行しやすい時代です。

「多様性」
「自己肯定感」
「個性」
「主体性」

大切な言葉ほど、本質を理解せずに使われがちです。

だからこそ孔子の言葉が響きます。

学びて思わざれば則ち罔し。
思いて学ばざれば則ち殆し。

子育てに迷ったとき、

まず学ぶ。そして考える。さらに学び直す。

その繰り返しの中に、本当の意味で子どもを育てる力が生まれるのではないでしょうか。

職員勉強会レポート

「子の最善の利益」とは何かを考える

柏の葉学園では、毎朝1時間の職員勉強会を行っています。

今回のテーマは、「子の最善の利益」とは?


子どもにとって一番良いこととは何か

児童福祉法第2条には、

全て児童は、心身ともに健やかに育成され、その生活を保障され、愛護されなければならない

とあります。

また、子どもの権利条約では、

子どもに関する全ての措置において、子どもの最善の利益を主として考慮しなければならない

とされています。

では、「子の最善の利益」とは何でしょうか。

職員同士で意見を出し合うと、様々な考えが出てきました。

  • 子どもが安心して過ごせること
  • 子どもが自分らしく成長できること
  • 将来困らない力を身につけること
  • 安全が守られること
  • 人とのつながりを学ぶこと

どれも大切な視点です。


「今の喜び」と「将来の幸せ」

研修の中で特に話題になったのは、

「子どもの希望を全て叶えることが最善の利益なのだろうか」

という問いでした。

例えば、
勉強が嫌だからやりたくない。
片付けが面倒だからしたくない。
友達とトラブルになったから学校に行きたくない。
・・・子どもの気持ちに寄り添うことは大切です。

しかし、寄り添うことと、言いなりになることは違います。

私たち支援者は、今の気持ちを受け止めながらも、

その子が5年後、10年後、20年後に困らないために何が必要なのかを考えなければなりません。


大人の都合になっていないか

もう一つ話し合ったのは、「それは本当に子どものためなのか」という視点です。

大人は時として、

  • 自分の手がかからないように
  • 問題が起きないように
  • その場が穏やかに終わるように

という理由で判断してしまうことがあります。

しかし、その判断は本当に子どもの成長につながるのでしょうか。

大人にとって楽な選択と、子どもにとって良い選択が一致するとは限りません。

だからこそ、

私たちは常に「誰のための支援なのか」を問い続ける必要があります。


保護者と共に考える

教育基本法第10条には、

父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する

とあります。

子どもの成長において最も大きな存在は家庭です。

私たち福祉施設は、保護者に代わる存在ではありません。

保護者と共に考え、共に悩み、共に成長を支える存在です。

子どもの最善の利益を考える時、

家庭と支援機関が同じ方向を向くことが何より大切だと改めて確認しました。


最後に

研修の最後に、職員からこんな言葉が出ました。

「子どもの最善の利益とは、今の子どもを見るだけではなく、その子の未来を見ることではないでしょうか。」

とても印象的な言葉でした。

子どもたちは毎日成長しています。
目の前の行動だけを見るのではなく、
その子が将来自分らしく幸せに生きていくために何が必要なのか。

私たちはこれからも学び続け、考え続けていきたいと思います。


子どもの最善の利益とは、子どもの今を大切にしながら、未来の幸せを見据えて関わること。

柏の葉学園は、その視点を忘れずに日々の支援に取り組んでまいります。

勉強会レポート|こどもの権利と合理的配慮を、毎日の実践へ

こんにちは。柏の葉学園グループの廣川です。
先日、下記4つのテーマの勉強会に参加してきました。

  • こどもの権利擁護 〜意見表明と最善の利益〜
  • 外国人の親権問題 〜近時の法改正や事例を踏まえて〜
  • 今、求められる合理的配慮 〜障がいのある人が活躍する社会について〜
  • ハラスメントの予防 〜カスハラ・セクハラ・パワハラ〜

特に「こどもの権利擁護」と「合理的配慮」は、明日からの支援を変える大切な学びでした。
職員会議でも即日共有し、園内の支援に取り入れていきたいと思います。
そして家族と学園とが“協働”で子どもの挑戦を支えるという視点に結び直して一緒に考えてもらえればと思います。

こどもの権利=「守られる」だけでなく「自分で選び、挑戦する」権利

  • 子どもの意見表明は、挑戦の出発点
  • “最善の利益”の検討は、安全を確保しつつ、成長のチャンスを残すことが肝心。
  • 私たちは「何を手伝うか」よりも、「どこまで自分でできるか」を常に確認します。

例えば!
1日の中で「自分で決める場面」を必ず1つ作る(服・おやつ・遊びの順番を選ぶなど)
できたことを事実で称えるみんなで喜ぶ(「自分で靴を並べたね」「できた!!」)
失敗は次の作戦会議の材料に(原因探しより“次どうする?”)

「問題を避ける」から「チャレンジする」へ

困りごと(偏食・癇癪・集団の難しさ 等)は大人が先回りして排除する対象ではなく、
周囲の大人と協力しながら攻略方法を学ぶ教材と考えましょう。

例えば!
困難や苦手なことに直面したら!
「1分だけチャレンジしてみる」「ひと口だけチャレンジしてみる!」などミニ挑戦を設定。
成功したら具体的に称賛し、次の段階へGO!!

バタフライエフェクトを、家庭から

小さな挑戦の成功が、自己効力感を育て、家庭・学校・地域へと波紋のように広がります。
「頼る」だけでなく「一緒にチャレンジ」。柏の葉学園は、子どもたちと肩を並べて歩みます。

次の“挑戦の足場”を、いっしょに設計していきましょう。