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投稿者: mika

サッカーワールドカップから子どもたちに伝えたいこと

今、世界中が注目しているサッカーワールドカップ。

世界の国々の選手たちが、ひとつのボールを追いかけて、全力で走り、考え、仲間と声をかけ合いながら戦う姿には、たくさんの学びがあります。

サッカーは、ひとりだけ上手でも勝てるスポーツではありません。

シュートを決める人がいる。
パスを出す人がいる。
相手の攻撃を止める人がいる。
仲間のために走る人がいる。
ベンチから声を出して応援する人がいる。

一人ひとりに役割があり、その役割がつながることで、ひとつのチームになります。

これは、子どもたちの生活にもよく似ています。

園での生活も、学校での生活も、家庭での生活も、ひとりだけで成り立っているわけではありません。

誰かが困っていたら声をかける。
友だちが頑張っていたら応援する。
自分にできることを一生懸命やる。
失敗した友だちを笑わずに、「大丈夫」「次があるよ」と伝える。

そうした一つひとつの行動が、集団生活の中でとても大切になります。

ワールドカップでは、勝つチームもあれば、負けるチームもあります。

でも、子どもたちに伝えたいのは、勝ち負けだけではありません。

負けそうになっても最後まで走ること。
失敗しても下を向き続けないこと。
仲間を信じること。
自分にできることを最後までやり切ること。

そこにこそ、大きな学びがあるのだと思います。

試合を見ていると、選手たちは何度も転びます。
ボールを取られることもあります。
思い通りにいかない場面もたくさんあります。

それでも、すぐに立ち上がり、またボールを追いかけます。

その姿は、子どもたちにとっても大切なメッセージになります。

最初から何でも上手にできる人はいません。
勉強も、運動も、遊びも、生活習慣も、何度も失敗しながら少しずつ身についていきます。

大切なのは、失敗しないことではありません。

失敗したあとに、もう一度やってみようと思えること。
うまくいかなかった理由を考えること。
仲間と力を合わせること。
そして、最後まであきらめないことです。

子どもたちにも、毎日の生活の中にそれぞれの「ワールドカップ」があります。

朝の準備を頑張るワールドカップ。
友だちにやさしくするワールドカップ。
給食を楽しく食べるワールドカップ。
苦手なことに挑戦するワールドカップ。
宿題に向かってみるワールドカップ。

大きなトロフィーはなくても、昨日より少し頑張れたら、それは立派な成長です。

昨日より少しやさしくできた。
昨日より少し我慢できた。
昨日より少し挑戦できた。
昨日より少しあきらめなかった。

それは、子どもたち一人ひとりの中にある大切な勝利です。

ワールドカップを通して、子どもたちにはスポーツの楽しさだけでなく、仲間と協力すること、最後までやり抜くこと、失敗しても立ち上がることの大切さを感じてほしいと思います。

今日の合言葉は、

「転んでも、もう一回!」
「ひとりじゃない、みんなでチーム!」
「今日の自分に、ナイスプレー!」

子どもたち一人ひとりが、今日も自分らしいナイスプレーを見せてくれることを楽しみにしています。

文月が始まりました

文月が始まり、今日は2日目。

7月に入ると、空の色も、風の感じも、聞こえてくる虫の声も、少しずつ夏らしくなってきます。

みんなにとって7月は、どんな月になるでしょうか。

7月には、楽しいことがたくさんあります。
七夕があります。
プールや水遊びがあります。
夏の虫や草花にもたくさん出会えます。
汗をかきながら遊ぶ日もあります。
冷たいものがおいしく感じる日もあります。

でも、7月はただ楽しいだけの月ではありません。

7月は、夏の宝物を見つける月です。

夏の宝物とは、キラキラ光る石や特別なおもちゃだけではありません。

「昨日より少し早く準備できた」
「苦手なことに挑戦できた」
「友だちにやさしい言葉をかけられた」
「汗をかいて思いきり遊べた」
「知らなかったことをひとつ覚えた」

そういうことも、みんなの大切な宝物です。

7月は、暑くて疲れる日もあります。
思い通りにいかない日もあるかもしれません。

でも、そんな日こそ、自分の中にある力を見つけるチャンスです。

「やってみよう」
「もう一回がんばってみよう」
「友だちと一緒ならできるかも」

そんな気持ちを大切にしてほしいと思います。

七夕には、願いごとを書きます。
願いごとは、ただお願いするだけではなくて

「こうなりたい」
「これができるようになりたい」

そう思ったら、少しずつ行動してみることが大切です。

7月は、みんなの願いが少しずつ育つ月。
そして、みんなの心と体がぐんと大きくなる月です。

今日から、夏の宝物さがしを始めましょう。

どんな宝物が見つかるかな。
先生たちは、とても楽しみにしています。

魔法の鉛筆と、頭の良くなるメガネ

先日、みんなで「おいしい給食」というドラマを見ました。

子どもたちの反応が、これまたすごい。
とても楽しそうにドラマを見ながら、「食べることの楽しさ」をみんなで共有していました。

映像の力って本当にすごい。
俳優さんもすごい。
そして、ここまで給食というものを探求し、作品として形にした制作に関わる方々も本当にすごい。

最近、宿題について保護者の方から相談を受けることが増えてきました。

「宿題をやらない」
「声をかけると親子げんかになってしまう」
「どう関わればいいのか分からない」

そんな悩みを抱えているご家庭は、決して少なくありません。

ある日、仕事が終わった後に先生たちで「おいしい給食」を見た時の子どもたちの姿のかわいらしかったこと、
お母さんたちからの相談について・・・
宿題がちょっと楽しくなることないかなぁ・・・なんて!
雑談をしていたところ、マナちゃん先生がこんなことを言いました。

「私、小さい頃、メガネをかけると頭が良くなると思っていて、“頭の良くなるメガネ”をかけて勉強していました!」

なんて素敵な話なのでしょう。

子どもが「その気になる方法」は、たくさんあっていいと思います。
大人から見れば少し不思議なことでも、子どもにとっては大きなきっかけになることがあります。

「これを使うと頑張れる」
「これを身につけると集中できる」
「なんだかできそうな気がする」

その気持ちが、最初の一歩になるのだと思います。

そんなこんなで、日曜日にパパ先生とミカ先生で【亀戸天神社】へ行ってきました。

亀戸天神社には、学問の神様として知られる菅原道真公が祀られています。
そこで鉛筆を購入し、参拝をして、子どもたちの学びが少しでも前向きなものになるようにお願いしてきました。

さらに、メガネも用意してご祈祷。

そして本日、子どもたちに

を進呈しました。

もちろん、このメガネをかけたから、鉛筆を使ったから、それだけで急に頭が良くなるわけではありません。

大切なのは、そのメガネをかけて、その鉛筆を使って、実際に勉強してみること

勉強するから知識が身につく。
知らなかったことが分かるようになる。
少し集中できるようになる。
そして、「できた」という経験が増えていく。

子どもたちには、そんな話をしました。

宿題は、ただ「やりなさい」と言われるだけでは、なかなか前向きにはなれません。
でも、ちょっとしたきっかけや物語があるだけで、子どもの気持ちは大きく変わることがあります。

魔法の鉛筆。
頭の良くなるメガネ。

本当の魔法は、その道具の中にあるのではなく、

さて、その後の子どもたちの様子は……。

後日、またレポートします。

水無月が終わります。

今日で、2026年6月も終わりです。

昔の人は6月のことを「水無月(みなづき)」と呼びました。

「水無月」と聞くと、「水が無い月」と思ってしまいます。

でも、実はそうではありません。

この「無」は、「無い」という意味ではなく、「の」という意味で使われています。

つまり、水無月=「水の月」

ということです。

田んぼに水を引き、田植えを終え、田一面に水が張られる季節。

だからこそ、「水の月」と呼ばれるようになりました。

日本の言葉は、本当に奥深いものです。


子どもたちも同じです。
言葉だけを見てしまうと、誤解することがありように、
行動だけを見ても、本当の気持ちは見えません。

だから私たち大人は、「なぜだろう?」と、一歩立ち止まって考えることが大切です。

言葉の意味を知ると世界が広がるように、子どもの背景を知ると、その子への見え方も変わります。


一年の折り返しとなる今日。

半年を振り返るのも良いのかもしれませんねぇ。

できなかったことではなく、できるようになったことを数えてみる。

少し背が伸びたこと。
少し我慢ができたこと。
少し優しくなれたこと。

成長とは、大きな変化だけではありません。

小さな積み重ねが、やがて大きな実りになります。

どうぞ残り半年も、焦らず、一歩ずつ。

今日という一日が、明日の自分を育ててくれるのですから・・・。

🍆ぼくは、学園のなすです。

こんにちは。
柏の葉学園のプランターで育っている、なすです。

毎日、子どもたちが
「大きくなったね!」
「もう食べられるかな?」
と、ぼくを見に来てくれます。

一番うれしいのは
♪「おおきくなーれ!おおきくなーれ!パワー(*^^)v」の掛け声のもと
手をかざしてパワーをくれること♥

正直に言うとね。
ぼくは、一日では大きくなれません。

太陽の光を浴びて、
雨や水をもらって、
風に揺られて、
少しずつ、少しずつ育っています。

いつもパワーをくれる子どもたちも同じなんだと思います。

昨日できなかったことが、
今日できるとは限らない。

でも、昨日より少し考えられた。
昨日より少し待てた。
昨日より少し笑顔が増えた。

それだけでも、ちゃんと育っているんです。

ぼくを見て、
「まだ小さいね。」
と言う人はいません。

「もう少しだね。」
と、みんな待ってくれます。

子どもたちにも、
そんな優しい眼差しが向けられたら嬉しいな。

急いで大きくなる野菜はありません。

急いで育つ子どももいません。

だから今日も、
ぼくは空を見上げて、ゆっくり大きくなります。

そして食卓に並ぶその日まで、
子どもたちに「育つって、待つことなんだよ」と、
静かに伝え続けようと思います。

🍆 今日のひとこと

「成長は、急がせるものではなく、信じて待つもの。」

— 柏の葉学園のなすより 🌱

勉強とは何か?を考えてみました。

「勉強」という言葉は、「勉めを強いる」と書きます。

「勉める」とは、無理をしてでも力を尽くすこと、困難に負けず努力することです。
「勉」には、精を出して励むこと、また当然やらなければならない物事、義務という意味があります。

一方で、「強いる」とは、他人の意思を無視して無理に押し付けること、無理に行わせること、強制することを意味します。

この言葉だけを見ると、「勉強」とは少し厳しいものに感じられるかもしれません。
しかし、人が集団で生きていくうえで、「勉めを強いる」という行為は、とても大切なものだったのではないでしょうか。

例えば、狩猟の時代を考えてみます。
何も知らない若者が狩猟についていったとしても、知識や技術がなければ獲物を捕ることはできません。獲物が捕れなければ、自分だけでなく、家族や集団全体が困ることになります。場合によっては、生命に関わる問題にもなります。

だからこそ、昨日失敗したことを反省し、先輩から教わり、技術を覚え、次は少しでもできるようになろうとする。
この行為こそが、「勉めを強いる」ということではないかと思います。

つまり勉強とは、現在で言う単に机に向かって教科書を読むこと、書くこと・・・の前に
昨日より今日の自分が少しでも成長できるように、自分に負荷をかけて学ぶこと事態の行為です。

成長するということは、自分にある程度のストレスを与えることでもあります。
変化にはストレスが伴います。今までできなかったことに挑戦するからこそ、苦しさや面倒くささを感じるのです。しかし、そのストレスを乗り越えた先に成長があります。

このように考えると、「勉めを強いる」という行為があり、その行為が現在の「勉強」につながっていると解釈できます。

そう考えると、勉強は「したい」「したくない」、「好き」「嫌い」、「楽しい」「楽しくない」と判断するものではありません。
まず、人が生きていくために、勉めを強いる行為が必要なのです。

もし自分に必要な努力をすることができなければ、周りに迷惑をかけてしまうことがあります。集団の中で役割を果たせず、場合によっては邪魔者扱いされてしまうかもしれません。そうならないためにも、人は生まれてから成長していく過程で、勉めを強いることを学んでいく必要があります。

では、「勉強が楽しい」とはどういうことでしょうか。

それは、どうせ勉めを強いる必要があるのなら、そのやり方を工夫して楽しめるようにすることだと思います。
例えば、ゲーム性を持たせる。友達と協力する。目標を小さく分ける。できたことを認め合う。そうした工夫によって、勉強はただ苦しいものではなく、前向きに取り組めるものになります。

さらに考えると、日本の法律には、子どもには教育を受ける権利があり、保護者には教育を受けさせる義務があります。また、義務教育という制度もあります。
つまり、少なくとも義務教育の期間においては、子どもが学び、成長するために「勉めを強いる」ことは社会全体の前提になっているとも言えます。

現在の子どもたち、「勉強をやりたい」「やりたくない」と言うことがあります。
勉強は本人の気分で決めるものではありません。
人が社会の中で生きていくために、必要な力を身につける行為です。

だから私たち大人が考えるべきことは、子どもにただ「勉強しなさい」と言うことではありません。
そもそも「勉強」とは何なのか?なぜ学ぶ必要があるのか?を伝え、努力することの意味を教え、そして勉めを強いる過程を少しでも前向きにできるよう支えることではないでしょうか。

勉強とは、自分を成長させるために必要な負荷を受け入れること。
そして、昨日より今日の自分を少しでも良くしていくための営みなのだと思います。

「塩梅(あんばい)」という知恵

子どもたちによく話す言葉があります。

「塩梅を考えなさい。」

今では「あんばい」という言葉を耳にする機会も少なくなりましたが、とても日本らしい、美しい言葉です。

料理では、塩が多すぎても少なすぎても美味しくありません。

だから「塩梅」。

ちょうどよい加減を意味する言葉です。

この「ちょうどよい」は、人との関わりにも当てはまります。

冗談は楽しいものです。

みんなで笑い合える時間は、とても大切です。

でも、笑っているのが自分だけで、相手が笑えなくなったら、それはもう冗談ではありません。

あだ名も同じです。

親しみを込めて呼び合うことは、仲の良い証でもあります。

しかし、相手が嫌だと感じた瞬間から、それは親しみではなく苦しみになります。

ちょっかいを出し合うことも、子ども同士の楽しい遊びです。

ところが、やり過ぎれば喧嘩になります。

だから私は子どもたちに伝えます。

「塩梅を考えよう。」

行き過ぎないこと。

やり過ぎないこと。

そして何より、相手の表情や様子をよく見ること。

「今、相手は楽しそうかな。」

「嫌な顔をしていないかな。」

そんなことを考えられる人は、人に優しくなれます。

さらに大切なのは、自分自身を少し離れたところから見ることです。

自分では「これくらい大丈夫」と思っていても、周りから見ると行き過ぎていることがあります。

自分を俯瞰して見られる人は、自然と塩梅の良い人になっていきます。

この「塩梅」は、人間関係だけではありません。

子育てもそうです。

厳しすぎても苦しくなり、甘やかしすぎても育ちません。

植物も、水を与えすぎれば根が腐り、少なすぎれば枯れてしまいます。

どちらも「ちょうどよい加減」があります。

その「ちょうどよい」は、毎日同じではありません。

相手を見て、その日の様子を見て、臨機応変に変えていく。

これこそが昔から日本人が大切にしてきた「中庸」の考え方なのだと思います。

人生には、正解が一つしかない場面よりも、「塩梅」が問われる場面の方が、ずっと多いのです。

だからこそ、知識だけでなく、「加減のわかる人」を育てたい。

それが、人と気持ちよく生きていくための、本当の学びなのではないでしょうか。

戯れ!いたずら!遊び!・・・について考えてみる

子どもが「いたずら」をすると、大人は「こら!」と叱ります。

でも、ふと思いました。

「いたずら」って、どうして「悪戯」と書くのでしょう。

「戯」という字には、本来「遊ぶ」「心を遊ばせる」という意味があります。

子どもが笑いながら遊ぶ姿も、子猫がじゃれ合う姿も「戯れる」。

そこには悪意はありません。

ところが、「悪」という字が付くと「悪戯」。

遊びが、人を困らせる方向へ向かった瞬間です。

一方、日本にはこんな言葉もあります。

「趣がある」
「洒落ている」
「風流だ」

これらも、実は「遊び心」から生まれた言葉です。

趣とは、時間が育てた味わいを楽しむ心。

洒落とは、言葉や装いに知性を添える遊び心。

風流とは、季節や自然を慈しみ、心を豊かにする生き方。

同じ「遊び」でも、その行き先は大きく違います。

人を困らせる遊びは「悪戯」。

人を笑顔にする遊びは「洒落」。

自然や季節を楽しむ遊びは「風流」。

日本語は、その違いをきちんと言葉で教えてくれています。

子どもたちには、遊ぶことをやめてほしいのではありません。

どうせ遊ぶなら、人が笑顔になる遊びを覚えてほしい。

心が豊かになる遊びを知ってほしい。

そんな遊びができる人は、大人になっても周りの人を幸せにできるからです。


「戯」という漢字

「戯(たわむ・れる/ぎ)」は、

本気ではなく、心に余裕をもって遊ぶこと

が本来の意味です。

決して「悪いこと」を意味する漢字ではありません。

そこから様々な言葉が生まれました。


悪戯(いたずら)

「悪」と付いたことで、

相手に迷惑や困りごとを与える遊び

という意味になります。

  • 子どもの悪戯
  • 悪戯電話
  • 悪戯書き

しかし昔は今ほど悪い意味ではなく、

「少し困らせる程度の遊び」

くらいの意味でした。


戯れ(たわむれ)

こちらは「悪」がありません。

つまり

心を遊ばせること

です。

例えば

  • 子猫が戯れる
  • 春風と戯れる
  • 子どもが波と戯れる

自然や人との穏やかな触れ合いを表します。

文学では恋愛にも使われます。


ふざける

語源は

巫山戯る(ふざける)

と言われています。

「巫山」は中国の山の名前。

神秘的で夢幻的な世界を表し、

そこから

「現実離れした振る舞い」

という意味になりました。

現在では

  • 冗談を言う
  • 真面目にしない

という意味で使われます。


趣(おもむき)がある

趣とは

物事の奥にある味わい

です。

派手さではありません。

例えば

  • 古民家
  • 苔むした庭
  • 古い神社

などを見て

「趣がある」

と言います。

時間が育てた美しさです。


洒落ている

「洒落」は

洗練されていて気が利いていること

です。

例えば

  • 洒落たカフェ
  • 洒落た服装
  • 洒落た言い回し

また

「しゃれ(駄洒落)」も同じ語源です。

言葉で遊ぶことも「洒落」なのです。


風流(ふうりゅう)

これは日本人がとても大切にしてきた感覚です。

風流とは

自然や季節を楽しむ心

です。

例えば

  • 月を見る
  • 蛍を見る
  • 雨音を楽しむ
  • 茶を飲む
  • 花を愛でる

利益とは関係ありません。

心が豊かになる時間です。


面白い共通点

これらの言葉には

「遊び」

という共通点があります。

しかし、

遊びにも段階があります。

言葉遊びの質
悪戯人を困らせる遊び
戯れ心を遊ばせる
ふざける真面目さを崩す
洒落知性で遊ぶ
心で味わう
風流人生そのものを楽しむ

【考 察】

日本人は昔から「遊び」を単なる娯楽とは考えていませんでした。

仕事ばかりでもなく、勉強ばかりでもなく、人生には余白が必要だと知っていたのです。

その余白が、言葉では「戯れ」となり、美意識では「趣」となり、感性では「風流」となり、知性では「洒落」となりました。

一方で、その余白が相手を傷つける方向へ向かえば「悪戯」と呼ばれ、場をわきまえず真面目さを欠けば「ふざける」と言われます。

つまり違いは、「遊ぶ」という行為そのものではなく、その遊びが誰かを豊かにするか、困らせるかにあります。

古人は「遊び」を否定したのではなく、その質を見極めようとしてきたのでしょう。

柏の葉学園の先生の愛情

先日、公園での活動中の一枚です。

子どもたちは橋の向こうに集まり、何かを見ています。

その少し後ろから、先生がそっとカメラを向けています。

この写真を見ていると、ふと思います。

先生の仕事は、

子どもを管理することではなく、

子どもの成長を見守ることなのだと。

子どもたちは毎日少しずつ成長しています。

友達と話せるようになった。

順番を待てるようになった。

最後まで頑張れるようになった。

でも、その成長はとても小さく、

忙しい毎日の中では見逃してしまうこともあります。

だから先生たちは見ています。

子どもたちが何に興味を持ったのか。

どんな表情をしたのか。

どんな言葉を話したのか。

どんな小さな成功があったのか。

写真を撮るのも、

記録を書くのも、

その一瞬一瞬を大切にしたいからです。

愛情とは、

何でもしてあげることではありません。

愛情とは、

その子の成長を信じて待つこと。

困った時には支え、

頑張った時には一緒に喜び、

失敗した時にはもう一度挑戦できるよう背中を押すことです。

柏の葉学園の先生たちは、

子どもたちの「今」だけを見ているのではありません。

その先の未来も見ています。

数年後、

大人になった時、

社会に出た時、

自分の力で歩いていけるように。

そんな願いを込めながら、

今日も子どもたちの後ろから、

そっと成長を見守っています。

目立たなくてもいい。

主役は子どもたちだから。

先生たちは今日も、

一歩後ろから応援しています。

森のふくろう先生のひとりごと

可愛い子には旅をさせよ

こんにちは。

森の真ん中の大きなクスノキに住む、300歳のふくろう先生です。

子どもが困っていると、

つい手を貸したくなります。

転びそうなら支えたくなるし、

失敗しそうなら止めたくなります。

だって可愛いのですから。

でも、昔の人は言いました。

「可愛い子には旅をさせよ」

これは、

遠くへ行かせなさいという意味ではありません。

苦労や失敗を経験させなさい、

という意味です。

転んだから歩き方を覚える。

失敗したから考えるようになる。

悔しい思いをしたから強くなる。

成長は、いつも少しの困難と一緒にやってきます。

親は子どもの人生を代わりに歩くことはできません。

だからこそ、

小さな挑戦を見守ることが大切です。

助けることも愛情。

見守ることも愛情。

その両方が子どもを育てます。

種は急いでも芽を出しません。

けれど、自分の力で土を押し上げた芽は、

強く大きく育つのです。