『書く』ということ
――文字の向こう側にあるもの
現在、学園ではモニタリングを実施しています。
その中で、今回に限らず多く寄せられるのが「書字」に関する相談です。

文字を書くことが苦手。
書くことに時間がかかる。
書いていると疲れてしまう。
だからタブレットやPCを使わせてほしい。
そんな相談をいただくたびに、私は改めて、「書くって、何だろう」と考えます。
そんな中、ふと思い出した言葉があります。
確か中学生の頃、国語の先生がこんなことを言っていました。
「書くことをしなくなると、人は読むこともしなくなる。」
当時の私には、その意味がよく分かりませんでした。
でも今になって考えてみると、少しだけ、その言葉の意味が分かるようになりました。
書くことは、「伝えたい」と思うこと
人が文字を書く理由はいろいろあります。
記録するため。
覚えておくため。
考えを整理するため。
そして、とても大切な理由の一つが、
「誰かに何かを伝えたい」
ということなのだと思います。
「ありがとう」
「お疲れさま」
「ごめんなさい」
「元気?」
「好きです」
そんな気持ちを誰かに伝えようとするとき、私たちは自然と相手のことを考えます。
読みやすいように、少し丁寧に書こう。
ここで改行した方が伝わりやすいかな。
どんな便箋にしよう。
どんなペンで書こう。
青いインクがいいかな。
この人には、このレターセットが似合うかな。
そう考えてみると、「書く」という行為は、単に文字を紙の上に並べる作業ではありません。
そこには、相手を想う時間があります。
手書きの手紙と、印刷された手紙
少し想像してみてください。
全く同じ文章が書かれた二通の手紙があります。
一通は、パソコンで入力され、きれいに印刷された手紙。
もう一通は、誰かが自分のために一文字ずつ書いてくれた手書きの手紙。
あなたなら、どちらを手に取って、ゆっくり読みたいと思うでしょうか。
もちろん、印刷された文字には大きな良さがあります。
読みやすい。
整っている。
たくさんの人に正確に伝えることができる。
それも、とても大切なことです。
でも、手書きの手紙をもらったとき、私たちはそこに書かれた「言葉」だけを読んでいるのではないような気がします。
この手紙を書くために、どれくらいの時間を使ってくれたのだろう。
何を書こうかと考えてくれたのだろう。
わざわざ便箋を選んでくれたのかな。
ペンを手に取って、一文字ずつ書いてくれたんだな。
そんなことまで想像します。
途中で書き間違えたかもしれません。
何と書こうか迷って、しばらく手を止めたかもしれません。
一度書いた言葉を消して、別の言葉に書き直したかもしれません。
手書きの手紙からは、完成した文章だけではなく、
その文字が生まれるまでにかかった時間や手間まで感じることができます。
そして何より、「自分のことを想いながら、この文字を書いてくれたんだ」という気持ちを感じることができます。
少し右上がりの文字。
いつもより丁寧に書こうとした文字。
急いで書いたことが分かる文字。
筆圧の強い文字。
少しかすれた文字。
大きな文字。
小さな文字。
手書きの文字には、その人らしさがあります。
その日の気持ちや、そのときの状況までもが、どこかににじんでいるように感じます。
つまり私たちは、手書きの文字を読むとき、
文字そのものだけではなく、「文字の背景」まで読んでいるのではないでしょうか。
これは、とても豊かなことだと思います。
「ありがとう」という五文字
例えば、「ありがとう」という五文字。
パソコンやスマートフォンなら、ほんの数秒で入力できます。
でも、その五文字を誰かが自分のために紙に書いてくれたとしたら。
同じ「ありがとう」でも、受け取ったときの感じ方は少し違うのではないでしょうか。
その人がペンを持った時間。
自分のことを思い浮かべた時間。
何を書こうかと考えた時間。
便箋を選んだ時間。
封筒に入れた時間。
そうした時間のすべてが、「ありがとう」という五文字の後ろに存在しています。
だから、手書きの文字には重みがあります。
それは、字が上手だからではありません。
美しい字だからでもありません。
その人が、自分の時間を使って書いてくれた文字だからです。
なぜ手紙を捨てられないのだろう
何十年も前にもらった手紙を、大切にしまっている人は少なくありません。
昔の友人からの手紙。
学生時代にもらった手紙。
卒業するときの寄せ書き。
子どもが小さい頃に書いてくれた、「おかあさん ありがとう」
という文字。
そして、もう会うことのできない家族が残した、何気ないメモ。
それらを大切に残しているのは、字が上手だからでしょうか。
おそらく、そうではありません。
その文字を見ると、その人の顔を思い出す。
声を思い出す。
そのときの景色を思い出す。
そして、そのときの自分の気持ちまで思い出す。
文字が、記憶を連れてくる。
文字が、人を連れてくる。
手書きの文字には、そんな力もあるのだと思います。
そう考えると、中学生の頃に先生から聞いた、「書くことをしなくなると、人は読むこともしなくなる」
という言葉も、少し違って聞こえてきます。
自分が「書く側」になった経験があるからこそ、誰かが書いた文字の向こう側にある気持ちや時間を想像できる。
「読む」とは、単に書いてある文章を理解することだけではないのかもしれません。
文字の向こう側にいる人を想像する。
それもまた、「読む」ということなのではないでしょうか。
ここで「合理的配慮」について考えてみたい
近年、「合理的配慮」という言葉が広く知られるようになりました。
教育の現場でも、「書字が苦手なので、タブレットを使わせてほしい」「ノートを書かなくてもよいようにしてほしい」「PCで入力する形にしてほしい」という相談が増えています。
もちろん、本当に必要な合理的配慮は提供されるべきです。
合理的配慮は、障害のある人が直面している社会的な障壁を取り除き、他の人と同じように学んだり参加したりする機会を確保するための大切な仕組みです。
ただ、ここで一度立ち止まって考えてみたいのです。
合理的配慮とは、「苦手なことをすべてやらなくてよくすること」なのでしょうか。
私は、そうではないと思っています。
例えば、書くことに大きな困難がある子に、「みんなと同じ量を書きなさい」と求め続けることが適切とは思いません。
書くことだけに力を使い果たしてしまい、本来学ぶべき内容にたどり着けないのであれば、タブレットやPCを使う意味は十分にあります。
それは、その子の学ぶ機会を守るための大切な配慮です。
一方で、「書くことが苦手だから、もう一切書かなくてもよい」と考えてしまうことにも、私は少し慎重でありたいと思っています。
教育には、その子の今の困難を補うことと同時に、その子自身が持っている力を育てていくという役割もあるからです。
「配慮すること」と「育てること」は両立できる
例えば、10行書くことが難しいのであれば、例えば5行は自分で書き、残りはタブレットを使う。
板書を全部写すことが難しいのであれば、プリントを用意し、大切な言葉だけを書き込む。
長い作文はPCを使いながら、名前や住所など、生活の中で必要となる文字については手書きする経験を残す。
そういう方法も考えられます。
文部科学省も、学校教育における合理的配慮について、一度決めたら固定するものではなく、子どもの発達の程度や適応の状況などを見ながら、内容を柔軟に見直すことが重要だとしています。
つまり、「合理的配慮をすること」と「できることを増やしていくこと」は、対立するものではありません。
必要な場面では道具の力を借りる。
そして、その子ができる部分については、その力を大切に育てる。
私は、その両方が必要なのだと思います。
鉛筆か、タブレットか。
手書きか、PCか。
どちらか一方を選び、もう一方を捨てなければならないわけではありません。
鉛筆も使える。
タブレットも使える。
PCも使える。
使える道具が多いほど、その子が将来選べる方法も増えていきます。
「権利だから」で終わらせたくない
合理的配慮について、学校と保護者の考え方に違いが生まれることがあります。
保護者としては、「わが子が困っているのだから、できるだけ負担をなくしてあげたい」と思うでしょう。
それは当然の気持ちだと思います。
学校や支援する側には、「今困らないようにすること」だけではなく、「この子が5年後、10年後、社会に出たときにどうなるのか」という視点もあります。
だからこそ、「合理的配慮を受ける権利がある」だけで話を終わらせるのではなく、「この配慮は、この子の将来にどうつながっていくのだろう」というところまで一緒に考えていきたいと思います。
国の考え方でも、合理的配慮は一方的に決めるものではなく、本人と提供する側が建設的に対話し、個々の状況に応じて必要な方法を考えていくことが大切にされています。
学校と保護者。
支援者と本人。
立場は違っても、目指しているところは同じはずです。
この子が将来、自分の力で選び、自分らしく生活していくために、今、何を残してあげるべきなのか。
そこを一緒に考えることが大切なのではないでしょうか。
デジタルの時代になっても「書く」はなくなっていない
確かに、年々デジタル化は進んでいます。
仕事ではPCを使います。
連絡はスマートフォン。
買い物もオンライン。
行政の手続きも、少しずつデジタル化されています。
これから先、手書きをする機会はさらに減っていくのかもしれません。
それでも、現時点では「書く」という行為が社会から完全になくなったわけではありません。
契約。
医療。
福祉。
行政関係の書類。
さまざまな場面で、自分の名前を書くことや、署名を求められることがあります。
私自身も、ある程度の年齢になり、親の介護に関わるようになりました。
そこで感じることがあります。
高齢になり、目が見えにくくなっている。
文字そのものを思い出すことも難しくなっている。
手を動かすことも大変になっている。
それでも、
「こちらにご本人の自署でお名前をお願いします」と言われる場面があります。
もちろん、制度や状況によっては代筆など別の方法が認められる場合もあります。
それでも社会の中には、まだ「自分で書く」という場面が確かに残っています。
だから私は、「これからはデジタルの時代だから、書けなくても困らない」とは、簡単には言えません。
でも、必要だから書く――だけではない
ただ私は、「将来、書類を書くときに困るから、書けるようにしておきましょう」と言いたいわけではありません。
それだけでは、「書く」という行為はあまりにも味気ない。
書くことには、もっと豊かな彩りがあると思うのです。
誰かのことを想いながら手紙を書く。
お気に入りのノートに今日あったことを書く。
腹が立ったことを紙に書き出す。
悲しかったことを書く。
うれしかったことを書く。
誰にも見せるつもりのない言葉を書く。
そうしているうちに、「自分は本当はこんなことを思っていたんだ」
と気づくことがあります。
書くことは、
誰かを想う行為であると同時に、自分自身の心を見つめ、整える行為でもある。
私はそう思っています。
字は上手でなくていい
誤解してほしくないのですが、
私は「きれいな字を書けること」が一番大切だと思っているわけではありません。
完璧である必要もありません。
たくさん書けなければならないわけでもありません。
たった一言でもいい。「ありがとう」と自分の手で書く。
その文字には、その人にしか書けない形があります。
その日の自分にしか書けない文字があります。
それも「書く」ということの魅力です。
なぜ、人は文字をつくったのだろう
子どもたちには、ぜひ一度考えてみてほしいと思います。
そもそも、なぜ人は文字をつくったのでしょうか。
文字がなかった時代、人はどんな方法で大切なことを伝えていたのでしょう。
もし文字が生まれていなかったら、
昔の人が何を考えていたのか。
どんな生活をしていたのか。
どんな出来事があったのか。
私たちは今のように知ることができたでしょうか。
誰かが文字を書いた。
そして、誰かがそれを残した。
だから何百年、何千年という時間を越えて、遠い昔の人の言葉や思いが、今を生きる私たちに届いています。
考えてみれば、不思議なことです。
書いた人がいなくなった後も、
その人の文字は残る。
手紙もそうです。
歴史書もそうです。
日記もそうです。
家族が残した小さなメモだってそうです。
文字は、人と人をつなぐだけではありません。
時間と時間をつなぐもの。
人と記憶をつなぐもの。
そして、ときには、
心と心をつなぐもの。
なのだと思います。
「書かなければならない」から、「書くこともできる」へ
だからこそ私は、子どもたちから「書く」という経験を簡単に取り上げたくありません。
必要なら、タブレットを使えばいい。PCを使えばいい。音声入力だって使えばいい。
それらは、その子の可能性を広げてくれる素晴らしい道具です。
でも同時に、書くことが少しでもできるのであれば、その力を育ててあげたい。
少しずつでも・・・。
「書かなければならない」ではなく、「書くこともできる」。
そんな選択肢を、その子の中に残してあげたいと思います。
鉛筆も。
ペンも。
タブレットも。
パソコンも。
全部、自分を助けてくれる道具にすればいい。
その中から、自分で選べる人になればいい。
書くことを、楽しんでほしい
そして何より、文字を書くことを「苦しい訓練」で終わらせないでほしいと思います。
好きな人に、一言書いてみる。
家族に、「ありがとう」と書いてみる。
お気に入りのペンを一本見つける。
好きな色のインクを選んでみる。
自分だけのノートを持ってみる。
自分の名前を、ちょっと格好よく書いてみる。
それだけでもいいのです。
誰かを想いながら文字を書くとき、「書く」という行為は、ただの学習課題ではなくなります。
鉛筆を正しく持つための練習でもない。
漢字を間違えないためだけの練習でもない。
決められた時間内に何文字書くかという話でもない。
自分の気持ちを、誰かに届けるための行為になる。
そこに私は、「書く」ということの本当の豊かさがあるように思います。
中学生の頃には分からなかった、「書くことをしなくなると、人は読むこともしなくなる」という先生の言葉。
今なら少し分かる気がします。
書く経験があるから、誰かが書いた文字の後ろにある時間を想像できる。
手間を想像できる。
迷いを想像できる。
そして、自分を想ってくれた気持ちを感じることができる。
文字を読むということは、その向こうにいる「人」を読むことなのかもしれません。
だから子どもたちには、ぜひ、書くことを楽しんでほしい。
そして大人である私たちも、「書ける・書けない」だけで判断するのではなく、
なぜ人は文字を書くのだろう。
なぜ文字は、この世界に生まれたのだろう。
そんなことを、もう一度考えてみてもいいのではないでしょうか。
書くことは、誰かに伝えること。
自分を見つめること。
記憶を残すこと。
そして、誰かを想うこと。
一枚の紙と一本のペンの中には、私たちが思っている以上に、たくさんのものが詰まっています!