勉強とは何か?を考えてみました。

「勉強」という言葉は、「勉めを強いる」と書きます。
「勉める」とは、無理をしてでも力を尽くすこと、困難に負けず努力することです。
「勉」には、精を出して励むこと、また当然やらなければならない物事、義務という意味があります。
一方で、「強いる」とは、他人の意思を無視して無理に押し付けること、無理に行わせること、強制することを意味します。
この言葉だけを見ると、「勉強」とは少し厳しいものに感じられるかもしれません。
しかし、人が集団で生きていくうえで、「勉めを強いる」という行為は、とても大切なものだったのではないでしょうか。
例えば、狩猟の時代を考えてみます。
何も知らない若者が狩猟についていったとしても、知識や技術がなければ獲物を捕ることはできません。獲物が捕れなければ、自分だけでなく、家族や集団全体が困ることになります。場合によっては、生命に関わる問題にもなります。
だからこそ、昨日失敗したことを反省し、先輩から教わり、技術を覚え、次は少しでもできるようになろうとする。
この行為こそが、「勉めを強いる」ということではないかと思います。
つまり勉強とは、現在で言う単に机に向かって教科書を読むこと、書くこと・・・の前に
昨日より今日の自分が少しでも成長できるように、自分に負荷をかけて学ぶこと事態の行為です。
成長するということは、自分にある程度のストレスを与えることでもあります。
変化にはストレスが伴います。今までできなかったことに挑戦するからこそ、苦しさや面倒くささを感じるのです。しかし、そのストレスを乗り越えた先に成長があります。
このように考えると、「勉めを強いる」という行為があり、その行為が現在の「勉強」につながっていると解釈できます。
そう考えると、勉強は「したい」「したくない」、「好き」「嫌い」、「楽しい」「楽しくない」と判断するものではありません。
まず、人が生きていくために、勉めを強いる行為が必要なのです。
もし自分に必要な努力をすることができなければ、周りに迷惑をかけてしまうことがあります。集団の中で役割を果たせず、場合によっては邪魔者扱いされてしまうかもしれません。そうならないためにも、人は生まれてから成長していく過程で、勉めを強いることを学んでいく必要があります。
では、「勉強が楽しい」とはどういうことでしょうか。
それは、どうせ勉めを強いる必要があるのなら、そのやり方を工夫して楽しめるようにすることだと思います。
例えば、ゲーム性を持たせる。友達と協力する。目標を小さく分ける。できたことを認め合う。そうした工夫によって、勉強はただ苦しいものではなく、前向きに取り組めるものになります。
さらに考えると、日本の法律には、子どもには教育を受ける権利があり、保護者には教育を受けさせる義務があります。また、義務教育という制度もあります。
つまり、少なくとも義務教育の期間においては、子どもが学び、成長するために「勉めを強いる」ことは社会全体の前提になっているとも言えます。
現在の子どもたち、「勉強をやりたい」「やりたくない」と言うことがあります。
勉強は本人の気分で決めるものではありません。
人が社会の中で生きていくために、必要な力を身につける行為です。
だから私たち大人が考えるべきことは、子どもにただ「勉強しなさい」と言うことではありません。
そもそも「勉強」とは何なのか?なぜ学ぶ必要があるのか?を伝え、努力することの意味を教え、そして勉めを強いる過程を少しでも前向きにできるよう支えることではないでしょうか。
勉強とは、自分を成長させるために必要な負荷を受け入れること。
そして、昨日より今日の自分を少しでも良くしていくための営みなのだと思います。