Skip to main content

よみもの:「今日は行きたくない」

朝の玄関で、翔太は靴を履かずに立っていた。

「どうしたの?」

母の美咲が声をかけると、翔太は小さな声で言った。

「今日、サッカー行きたくない」

美咲は少し驚いた。
翔太は半年前からサッカー教室に通っている。

最初は楽しそうだった。
けれど最近、練習が少し難しくなってきていた。

「どうして?」

「だって、疲れるし。コーチに注意されるし。うまくできないし」

翔太は下を向いたまま答えた。

美咲は、胸が少し痛くなった。
嫌がる子どもを無理に行かせるのはかわいそう。
泣きそうな顔を見ると、休ませてあげたくなる。

「そんなに嫌なら、今日は休む?」

そう言いかけたとき、後ろから父の健太が声をかけた。

「翔太、本当に行きたくないのか?」

翔太はうなずいた。

「うん。行きたくない」

健太はしゃがんで、翔太と目の高さを合わせた。

「そっか。行きたくないんだな。疲れるし、注意されるし、うまくできないから嫌なんだな」

翔太は、またうなずいた。

「うん」

健太は少し黙ってから、ゆっくり言った。

「その気持ちは分かるよ。でもな、そういう気持ちは翔太だけじゃないんだ」

翔太が顔を上げた。

「え?」

「面倒くさいな、行きたくないな、うまくできないから嫌だな、注意されるの嫌だな。そういう気持ちは、みんなある。お父さんにもあった。お母さんにもあったと思う」

美咲も静かにうなずいた。

「でもね、翔太」

健太は続けた。

「嫌だからすぐやめる。行きたくないから行かない。そればかりにしていると、少し嫌なことがあるたびに逃げるようになってしまうんだ」

翔太は黙って聞いていた。

「もちろん、本当に苦しいなら休んでいい。本当に体がつらいなら、無理しなくていい。誰かにひどいことをされているなら、お父さんとお母さんは絶対に守る」

健太の声はやさしかった。

「でも、今日の翔太の『行きたくない』は、どうだろう。少し疲れるから。うまくできないから。注意されるのが嫌だから。そういう気持ちじゃないか?」

翔太は少し口をとがらせた。

「だって、リフティングできないんだもん」

「できないから練習するんだよ」

健太は真剣に言った。

「できることだけやっていたら、できないことはずっとできないままだ」

翔太は何も言わなかった。

美咲はその様子を見ながら、以前の自分を思い出していた。

前にも翔太は「行きたくない」と言った。
そのとき美咲は、すぐに休ませた。
「本人が嫌だと言っているから」と思った。

けれど本当は、美咲自身も思っていた。

もう少し続けた方がいい。
途中で投げ出さない経験も必要だ。
うまくいかないことを乗り越えてほしい。

でも、それを言えなかった。

嫌われたくなかった。
泣かせたくなかった。
無理をさせる親だと思われたくなかった。

それは翔太のためだったのか。
それとも、自分が向き合うことから逃げていただけだったのか。

美咲は深く息を吸った。

「翔太」

今度は美咲が言った。

「お母さんも、翔太の気持ちは分かるよ。行きたくない日もあるよね。うまくできないと嫌になるよね」

翔太は小さくうなずいた。

「でも、お母さんは、今日は行った方がいいと思う」

翔太が母を見た。

「なんで?」

「うまくできないから。だから、行った方がいいと思う」

美咲は言葉を選びながら続けた。

「できないことから逃げない練習をしてほしい。少し嫌でも、やるべきことをやる力をつけてほしい。全部が楽しいことばかりじゃないって、少しずつ分かってほしい」

翔太は不満そうだった。

「でも、嫌だ」

「うん。嫌なんだよね」

美咲は翔太の肩に手を置いた。

「嫌でも、行こう」

その言葉は冷たくなかった。
けれど、はっきりしていた。

翔太は目に涙をためた。

「お母さん、ひどい」

美咲の胸がまた痛んだ。

けれど、今日は引き下がらなかった。

「ひどいと思うかもしれない。でも、お母さんは翔太のために言っているよ。今日だけ頑張ってみよう。終わったら、何が嫌だったか一緒に話そう」

健太も言った。

「今日行って、それでも本当に無理だと思ったら、また考えよう。でも、行く前から逃げるのはやめよう」

翔太はしばらく黙っていた。

やがて、ゆっくり靴を履いた。

「……今日だけだからね」

美咲はほっとした顔をした。

「うん。今日、頑張ってみよう」

その日の夕方。

翔太は汗だくで帰ってきた。
玄関を開けるなり、少し得意そうに言った。

「今日、リフティング3回できた」

美咲は笑った。

「すごいじゃない」

「でも、コーチにまた注意された」

「そっか。そんなこともあるよ」

「ちょっと嫌だった。でも、前よりできた」

健太が言った。

「行ってよかったか?」

翔太はすぐには答えなかった。

少し考えてから、照れくさそうに言った。

「まあ……ちょっとだけ」

美咲はその言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。

子どもの「嫌だ」は、本当の限界のこともある。
だから、大人は耳を傾けなければならない。

でも、すべての「嫌だ」が、逃がしてあげるべき理由とは限らない。

面倒くさい日もある。
うまくいかない日もある。
注意されて嫌になる日もある。
少ししんどい日もある。

それは誰にでもある。
そして、そういう日を乗り越えることで、子どもは少しずつ強くなる。

美咲は思った。

子どもの気持ちを聞くことは大切。
でも、子どもの言う通りにすることだけが愛情ではない。

「嫌でもやるべき時がある」
「できないことから逃げないことも大切」
「思い通りにならない経験が、人を育てる」

それを教えるのも、親の役目なのだ。

夜、翔太は眠る前に言った。

「お母さん」

「なに?」

「次のサッカーも……、行きたくないって言っちゃうかも……」

美咲は笑って答えた。

「その時は、また一緒に考えよう。でも、まずは行ってみよう」

翔太は少しだけ笑った。

「うん」

美咲は部屋の明かりを消した。

暗くなった部屋で、翔太は小さな声で言った。

「リフティング、今度は5回できるかな」

美咲は静かに答えた。

「きっとできるよ」

その声は、子どもを押しつける声ではなかった。
子どもの言いなりになる声でもなかった。

子どもを信じて、少し先へ導く声だった。