「嫌だからやらない」で終わらせない大人の関り
子どもの「やりたくない」を、そのまま優先してよいのか
「子どもが行きたくないと言うから」
「子どもがやりたくないと言うから」
「子どもが辞めたいと言うから」
習い事、スポーツ、勉強、学校行事、家庭での役割。
子どもが嫌がったとき、大人はその言葉をどう受け止めるべきでしょうか。
もちろん、子どもの気持ちを無視してよいという話ではありません。
子どもにも感情があり、不満や不安、苦しさを感じることがあります。
ただし、それらの感情の多くは、決して特別なものではありません。
「面倒くさい」
「行きたくない」
「うまくできないから嫌だ」
「注意されるのが嫌だ」
「少ししんどい」
こうした気持ちは、誰もが成長の過程で経験するものです。
子どもはまだ経験が少ないため、目の前のつらさを大きく感じてしまいます。
今の不快感、今の面倒くささ、今の不満が、本人の中では最優先になってしまうのです。
しかし、大人から見れば、それは人生において避けて通れない小さな壁であることも多いはずです。
大した苦労ではない。
誰もが経験すること。
そういう時もある。
それでも、やるべきことはやる。
嫌でも乗り越えなければならない場面がある。
本来、大人が子どもに教えるべきなのは、まさにそこではないでしょうか。
子どもの希望が、そのまま叶ってしまう時代
最近、子どもが「やりたくない」と言うと、その希望がそのまま叶ってしまう場面が増えているように感じます。
「子どもが行きたくないと言うから、行かせません」
「子どもがやりたくないと言うから、やらせません」
「子どもが辞めたいと言うから、辞めさせます」
もちろん、本当に限界を迎えている子どもを無理に続けさせるべきではありません。
心や体に大きな負担があるなら、休ませることも、環境を変えることも必要です。
しかし、すべてがそうとは限りません。
少し面倒だから。
少し怒られたから。
少しうまくいかなかったから。
少し友だちと合わなかったから。
少し疲れたから。
そうした理由であっても、子どもの「嫌だ」という言葉が最優先されてしまう。
けれど、本当にそれでよいのでしょうか。
お父さんお母さんに聞くと、こう返ってくることがあります。
「私たちは行った方がよいと思っている」
「私たちはやった方がよいと思っている」
「私たちは続けた方がよいと思っている」
そう思っているにもかかわらず、子どもが嫌がるからやめさせる。
大人として本当は必要だと思っていることを、子どもに伝えきれない。
子どもに嫌われたくない。
泣かせたくない。
強く言うのがかわいそう。
親子関係が悪くなるのが怖い。
その気持ちは分かります。
しかし、大人が「この子のためになる」と思っていることを言えないまま、子どもの希望だけを通してしまうのは、本当に子どものためになっているのでしょうか。
子どもはまだ、正しく判断する材料を持っていない
子どもは成長の途中です。
物事の分別がまだ十分についていない年齢があります。
良し悪しを自分だけで判断するには、経験が足りない段階があります。
今は嫌でも、続けた先に得られるものがあります。
今は面倒でも、後になって「あの時やっておいてよかった」と分かることがあります。
しかし子どもは、まだその先を十分に想像できません。
子どもにとっては、今のつらさがすべてです。
今の面倒くささがすべてです。
今の不満がすべてです。
だからこそ、目の前の嫌なことから逃げたいと思う。
楽な方を選びたいと思う。
やめたい、行きたくない、やりたくないと言う。
これは子どもとして自然な反応です。
だからといって、その判断をすべて正しいものとして扱ってよいのでしょうか。
もし子どもがすべて自分で正しく判断できるのであれば、教育も子育ても必要ありません。
けれど実際には、子どもにはまだ見えていない世界があります。
経験した大人だからこそ分かることがあります。
その大人が何も言わず、何も導かず、ただ「本人が嫌だと言っているから」と引き下がってしまう。
それは、子どもの意思を尊重しているように見えて、実は子どもに判断を丸投げしているだけではないでしょうか。
「嫌だからやらない」で終わらせてよいのか
子どもが「嫌だ」と言ったとき、大人が教えるべきことがあります。
それは、世の中には「嫌でもやるべき時がある」ということです。
「嫌だからやらない」ではなく、
「嫌でもやるべき時がある」
「少しつらくても続けることで力がつく」
「不満があっても、すぐに逃げない」
「思い通りにならないことを乗り越える」
こうしたことを、子どもは経験の中で学んでいきます。
我慢する力。
続ける力。
踏ん張る力。
気持ちを切り替える力。
うまくいかなくても、もう一度やってみる力。
これらは、楽しいことだけをしていて身につくものではありません。
嫌なこと、面倒なこと、少しつらいことを乗り越える中で育っていくものです。
子どもの「つらい」「嫌だ」という気持ちだけを優先してしまえば、子どもは乗り越える経験を失ってしまいます。
そして、少し嫌なことがあるたびに逃げることを覚えてしまうかもしれません。
もちろん、本当に追い詰められている子どもに「我慢しなさい」と言い続けるのは違います。
しかし、何でもかんでも「嫌ならやめていい」にしてしまうことも、子どもの成長を奪ってしまいます。
大切なのは、子どもの状態を見極めることです。
限界なのか。
甘えなのか。
一時的な感情なのか。
環境に問題があるのか。
乗り越えるべき壁なのか。
本当にやめるべき状況なのか。
ここを判断するのは、やはり大人の役割です。
「尊重」と「放任」は違う
子どもの意見を聞くことは大切です。
しかし、子どもの意見をそのまま最終決定にすることとは違います。
「嫌なんだね」
「つらいんだね」
「どうしてそう思うの?」
「何が一番しんどいの?」
まずは聴く。
これは必要です。
けれど、聞いたあとに大人が何も言わないのなら、それは教育ではありません。
「そう感じるのは分かる」
「でも、それを乗り越えることも大切だよ」
「お父さんお母さんは、ここまでは頑張ってほしいと思っている」
「なぜなら、これはあなたの力になると思うから」
このように、大人の考えを伝えることが必要です。
子どもの気持ちを受け止めることは大切です。
しかし、ただ共感するだけで終わってはいけません。
尊重とは、子どもの言う通りにすることではありません。
尊重とは、子どもの心を受け止めたうえで、その子にとって本当に必要な方向へ導くことです。
一方で、放任とは、子どもに任せているようで、実は大人が責任を引き受けていない状態です。
「本人がそう言っているから」
「子どもが決めたことだから」
「嫌がっているから仕方ない」
この言葉で、大人が判断する責任から逃げてしまっていないでしょうか。
自由を与えることが、必ずしも優しさとは限らない
「子どもの自由を大切にしたい」
「本人の意思を尊重したい」
この考え方自体は大切です。
しかし、まだ判断力が十分に育っていない子どもに、すべての選択を委ねることは、時に酷なことでもあります。
何も備わっていない子どもに判断を委ねる。
経験の少ない子どもに自由だけを与える。
その結果、子どもは目先の楽な方を選んでしまう。
これは本当に優しさなのでしょうか。
子どもは自由を与えられると、どうしても今の快・不快で判断しやすくなります。
長い目で見た成長よりも、今の気分を優先しやすい。
将来のためになることよりも、今楽なことを選びやすい。
それは子どもが悪いのではありません。
発達の途中だから当然なのです。
だからこそ、大人が必要です。
「今は嫌でも、これは大事なことだよ」
「もう少し続けてみよう」
「途中で投げ出さず、ここまではやってみよう」
「あなたの気持ちは分かる。でも、これは必要な経験だと思う」
こうした言葉をかけることは、押しつけではありません。
子どもを善い方向へ導くための、大人の責任です。
教育とは、子どもを善い方向へ導くこと
本来、教育や子育てとは、子どもがまだ知らないことを教えることです。
善いことと悪いことを伝えることです。
我慢する力、続ける力、努力する力、礼儀、責任感を育てることです。
つまり、子どもを善い方向へ導くこと。
「善導」することです。
大人が一方的に支配することではありません。
親の理想を押しつけることでもありません。
子どもの心を無視して、無理やり従わせることでもありません。
しかし、大人が本当に「この子のためになる」と思うなら、それを言葉にして伝える責任があります。
「あなたが嫌だと言っていることは分かる」
「でも、お父さんお母さんは、これは続けた方がいいと思っている」
「なぜなら、こういう力が身につくから」
「ここまでは頑張ってみよう」
「それでも本当に無理なら、もう一度一緒に考えよう」
このように、子どもの気持ちを受け止めながらも、大人の考えをしっかり伝える。
これが子育てではないでしょうか。
大人が大人であることをやめてはいけない
子どもの声を聴くこと。
子どもの気持ちを大切にすること。
それは、今の子育てにおいてとても重要です。
しかし同時に、大人が大人として立つことも必要です。
子どもに寄り添うことと、子どもの言いなりになることは違います。
子どもの意思を尊重することと、子どもに判断を丸投げすることは違います。
優しくすることと、必要なことを言わないことは違います。
子どもは、最初から正しい判断ができるわけではありません。
だからこそ、家庭があり、親がいて、先生がいて、大人がいます。
子どもが「嫌だ」と言ったときに、ただ引き下がるのではなく、
「なぜ嫌なのか」を聞き、
「それでも大切なことは何か」を考え、
「大人としてどう導くべきか」を判断する。
そこにこそ、教育と子育ての本質があるのではないでしょうか。